群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

徳川幕府と関ヶ原合戦

・1590年、徳川家康がこれまでの東海甲信の領地から江戸へ転封された時、家臣たちは大騒ぎをしたという。「御家人等は御國換ありとの風說を聞て大に驚き騷し」とパニック状態になったと『徳川実紀』は記す。

無理もない。先祖代々の土地を急に奪われ、全く土地勘のない関東地方への移住を余儀なくされたのだから…江戸時代の藩の転封も大騒ぎになったという記録が多い。ましてや徳川家は大藩といっていい、今で言えば長野県・山梨県・静岡県の三県にまたがる大きな領地を持っていたのである。三県の県庁が全て移転するようなものだ。

  
家康だけが「まあお前たち、そんなにパニックになって心配しなくっても大丈夫だよ。私が旧領地を離れ、あの遠い奥州に移転しても、百万石あれば上方へ進撃することは簡単なことさ」と冷静に判断していた、と『徳川実紀』は記す。

「君聞召。汝等さのみ心を勞する事勿れ。我たとひ旧領をはなれ。奥の國にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましける」

東はまだまだ上方から見れば奥州と変わらない土地だったのであろうか。

・最近の研究では、家康は江戸に入った後奥州仕置でも活躍し、豊臣政権下でも前田利家と並ぶ「二大老」の地位にあり、関東と東北に支配を及ぼしていたという。 『徳川実紀』でも、九戸政実の乱を平定し、これまた転封された伊達政宗の為に岩出山城を整備し、

「この奥州はしょっちゅう一揆が起こっているね。伊達君は葛西・大崎の両郡(現宮城県)を統治するといいよ、この城は葛西・大崎の中心になるように堅固に築城しておいたからね」

と、政宗を手なづけていることが出ている。

政宗も感激して「ああ、本当に有難うございます。この御恩は忘れません」と言い、ここに仙台藩の基礎が築かれたのであった。

(「 君は岩手山に新城をきつがせられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を收公せられ。葛西大崎の地にうつさるべきをあらか じめはかりしり給へば。その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。」)

・家康が東国支配を強固にしていったロールモデルとしては、おそらく鎌倉幕府が念頭にあったのだろう。この頃から家康は鎌倉幕府の歴史を学び始めた。二木謙一氏によると、1596年(慶長元年)7月に、公家の山科言継が家康に「吾妻鏡」の講義を終えたと記しているそうだ。おそらく講義は前々から行われ、激務の合間を縫って行われていたのだろう。関東に基盤を置き、奥州を後背地として確保するのは鎌倉幕府そのものである。「
東國諸大名の惣大將」(『徳川実紀』)だった家康は、地道に東国支配を行っていった。

・矢田挿雲が収集している江戸の古伝説によれば、家康が江戸を漫遊してあちこちで古寺の住職と歓談したりして、愛嬌を振りまき人心収攬に務めたのもこの頃だという。

・さて、その間に豊臣政権は迷走を続けた。朝鮮出兵、混乱する統治。
秀吉が作った壮麗な聚楽第も、
「おしつけて、いえば言われる十楽(聚楽)の、都の内は一楽もなし」
と庶民から批判されるほどであったという。

・そして1600年、関ヶ原の合戦が起こるのである。色々な原因は伝えられているが、結局豊臣政権が朝鮮出兵と内政の失敗でほぼ自滅しており、そうなると東国で力を蓄えていた家康が権力を握るのは自明の理でしかなかったのではないか。豊臣政権にしてみれば、不気味な存在である家康を倒さない限り自分たちが危ういのである。

・1600年、会津の上杉景勝が軍事力を増強し始め、4月1日に家康はそれを弾劾した。上杉側がそれを無視したため、東国の支配権を豊臣政権から委ねられている家康は7月26日、伏見から江戸に帰国し、「 鎌倉右大將(源頼朝)佐竹追討の佳例」『徳川実紀』)に従い、9月1日に下野小山に布陣した。
既に石田三成を首班とする豊臣政権と家康との関係は極度に悪化しており、家康は帰国の最中でも諸国の大名に大量に書状を発給している。

・8月25日、豊臣政権は家康に突然「最後通牒」を突きつけた。世にいう「内府ちがいの条々」である。豊臣政権は家康を謀反と決めつけ、最終決戦を図った。徳川家の留守居役・鳥居元忠が籠城する伏見城を落とし、徳川家についた大和筒井藩を除封、丹後細川藩を攻撃する司令を矢継ぎ早に発する。

さて、ここで通説だと小山評定があり、家康が演説を行い、上杉征伐に従軍していた福島正則がそれに答えて猛然と立ち上がる…というお話があるのだが、この話は白峰旬氏は創作ではないかと疑っている。

関ヶ原合戦はドラマチックなお話が後世やたらに創作されているのである。小山評定の話などそもそもあったかどうか学会でしばらく前に議論があったくらいで、かなり怪しい。

『黒田家譜』ですらこの小山評定を極めてアッサリと「家康は黒田長政・福島正則・徳永法印寿昌と協議して、上杉攻めを中止して上方征伐を決定した。諸将もそれに従った」と書いているのである。だいたいドラマチックなお話は全て怪しいと思うべきだと私は思う。この三人と協議するのは後世の目から見ると違和感があるのだが、かえって当時のことを伝えているのかもしれない。福島は清洲藩主、徳永は美濃高須藩主(岐阜県海津市海津町高須)で、両方共、最前線の城主である。

『黒田家譜』は面白いことに「箱根を死守して上方から進撃してくる豊臣軍を迎え撃とう」という話も出たと記している。関ヶ原で最終決戦になったのは偶然の産物でしかなかった。井伊直政が出した案は、

・家康は駿府城に入る。
・秀忠が浜松城に入る。
・岡崎城は本多忠勝・井伊直政が入る。
・清州城に福島正則が入り、相互に連携して豊臣軍を迎撃する。
というものであった。(『黒田家譜』)

現代の「関ヶ原合戦」を知っている人からすれば違和感しか無い案だろうが、最終決戦地が関ヶ原という前提そのものが結果論でしか無いので、現実に徳川方の領地から考えていくとこういうおとなしい迎撃案になるのであろう。

福島正則が先陣になったのも、小説などでは「三成が憎いから…」などと書かれているのだが、単に清洲藩主で豊臣軍と一番早くぶつかりそうだっただけだと思われる。なにしろこの頃豊臣方は既に近江(滋賀県)の大津藩京極家と激突しており、大津藩が敗北した場合、徳川方の城は清洲まで存在しないのである。福島・黒田・井伊・本多らが清洲へ先発するというのも当初の構想であった。

私はこれまでずっと「豊臣軍」とか「豊臣方」と書いているが、これは白峰旬氏が収集した当時の古記録が全てそう書いているからである。

さて、豊臣方は大垣城・岐阜城を二大拠点として清洲の徳川軍とにらみあうこととなった。
家康は「風邪」と言い出して江戸城を出ず、清洲の諸将も動かなかったのである。

『徳川実紀』には、徳川譜代の武将たちがしきりに家康の出陣に反対し、石川家成が「西ふさがりという悪い卦が出ている」と言い出し、藤堂高虎が「清洲の諸将は下手をすると豊臣方に寝返るかもしれません、私が出陣をおすすめするまでは様子を見たほうがいいですよ」と言ったことが出ている。正直、福島正則は豊臣一族ということもあり家康は最後まで、「この男は寝返るのではないか」と危惧していたようだ。上方の徳川方の各藩から救援要請がかなり来ており、家康は流石に重い腰を上げざるを得なかった。

幸い、加藤嘉明が岐阜城攻撃をいい出したところ、福島正則がそれに同調し、岐阜城が簡単に落城した
ので、家康もようやく動いたのである。

大垣城の豊臣本隊と協調して徳川と戦うはずだった、岐阜城が落ちたのは豊臣方痛恨のミスであった。

岐阜藩主の織田秀信(信長の孫)はまだ若く、実戦経験がなく、なぜか野戦を選択してわずか二千人
『黒田家譜』)で出陣したのはいかにもまずかった。徳川方は福島正則隊1万6千、池田輝政隊1万8千に分かれて木曽川を渡り、岐阜藩兵に攻めかかったのだが、多勢に無勢で岐阜藩兵はみるみるうちに負けてしまったようである。経緯は『黒田家譜』『毛利家文書』によればこのようなものだったようだ。

まず川上から福島隊が突入していった。

岐阜藩も無策ではなく、福島隊が突入した木曽川の渡河点に竹ヶ鼻城という「とりで」をつくり、徳川方を妨害していたが、大軍を見た竹ヶ鼻城二の丸の守備隊長・毛利広盛(元々岐阜藩士ではなく、石田三成から来た援軍)が早々に降伏してしまい、わずか36人で本丸を守るしかなかったというから、哀れであった。

本丸の守将は豪傑・杉浦五左衛門重勝で、長い槍を片手でブンブン振り回しながら猛然と徳川方と戦った(
『毛利家文書』)が、午前九時に戦い始めて午後四時まで持ちこたえるのがやっとであった。さしもの剣豪も1万6千人対36人ではなんとも致し方なかったのであろう。この杉浦五左衛門は有名な豪傑・真柄十郎左衛門の甥だという。

竹ヶ鼻のとりでが落城し、豪傑・
杉浦五左衛門が戦死したのに焦ったのか、岐阜藩主の織田秀信は城を捨てて飛び出してしまう。とりでを攻撃した福島隊とは別に、川下から池田隊が攻め上ってきているのでそれを迎撃しようとしたらしい。

 岐阜藩兵はけなげに、弓矢や鉄砲を放ちそれなりに池田隊を妨害したものの、猛然と攻めかかってくる池田隊は渡河作戦を成功させてしまい、バタバタと岐阜藩兵を切り崩した。後方の本陣に居た藩主・織田秀信に、使番が悲痛な報告をもたらしたのはすでに敗色濃厚な頃であったと
『黒田家譜』は伝える。

「殿、敵が大勢、木曽川を渡って攻め込んでまいりましたぞ。我が軍勢はもはや敗走してございます。この上は岐阜城に立てこもり、大垣の石田様の援軍を待って敵を打ち負かしましょう」

 若き藩主織田秀信は歯噛みしてくやしがり、「もはや城を枕に討ち死にするまでじゃ!もはや必死の覚悟で戦うより致し方ない」と悲憤慷慨したが、野戦で敗走した岐阜藩兵は30%程度になってしまい、堅城・岐阜城もこれでは守りようがなかった。
『黒田家譜』には「なんとも危うい籠城だなあ…」と岐阜藩士たちが嘆きながら籠城の準備をしたことが載っている。イキった藩主と、やる気のない藩士たちの対比がなんとも言えないところだが、今の組織でもよくありそうな情景では有る。

 翌日未明から岐阜城籠城戦が始まった。大手(表門)は福島隊、搦め手(裏門)は池田隊。
大垣からの援軍は徳川軍と野戦を行っており城に到達できず、岐阜藩士たちは悲痛な覚悟で戦わざるを得なかった。
岐阜藩には更に不幸が重なった。大手門の矢倉の上で奮戦していた岐阜藩随一の勇士・木造左衛門長政(きづくり・さえもん・ながまさ)が鉄砲に当たり倒れたのである。これで大手門が破れてしまい、搦め手を破った池田隊と福島隊が本丸の真下まで攻め込んでくる始末になった。天守閣からそれを見た藩主・秀信はパニックになり、「余は腹を切る」と言い出したという。家老たち(
百々越前守綱家らか)がいさめたので正気を取り戻し、降伏したというがなんといっていさめたのであろうか。落城というのはなんとも言えず物悲しい。

秀信もバカ殿ではなかった。正気を取り戻した後、藩士たちの再就職の為に感状(戦功証明書)を一々書いて渡したというのである。「まだ20歳以下なのに、さすがに織田信長公のお孫さんだけのことはある」と人々が感心したらしい。あまりにも運命は彼にとって酷であった。彼はその翌年、高野山で死去したという。この悲劇のプリンスにとって岐阜落城は悪夢でしかなかったろう。

秀信は仏教を弾圧した信長の孫だったので高野山にもいられず、高野山の麓の村で過ごしたというから哀れである。山麓で過ごしているうちに村娘とのロマンスも若干はあったようで子どもが三人産まれたというが、恐らく平和な時代であればそれなりに名君として名を残したのではあるまいか。大軍を擁しながら最後まで城門すら出ようとしなかった豊臣秀頼よりはずっと優れた人だったと思われる。

話が岐阜藩に偏ってしまったが、結局、最近の研究では関ヶ原合戦よりも岐阜落城のインパクトを重視する傾向があり、この岐阜落城が事実上の天下分け目であったようなので詳述した。

岐阜落城は豊臣方にとっても徳川方にとっても衝撃であったようである。

まず、豊臣方は岐阜城を救えず、援軍に出た石田三成隊が黒田長政・藤堂高虎らの猛攻を受けて逆に敗走してしまう始末で、多数の死傷者を出して意気消沈してしまった。こうなると浮足立った中から裏切り者が出始めるのはいつものことである。小早川秀秋と吉川広家が徳川方に内通し、怪しげな動きをし始めた。

徳川家康にとっても、戦線が膠着状態に陥ることを見越していたのだが、まさか岐阜城があっけなく落城し、大軍のはずの石田三成が敗走したとは想定外の事態であったようだ。家康は江戸から慌てて美濃へ急行している。笠谷和比古氏の研究によれば、時代劇によくある「威風堂々と大軍を率いて進軍する家康」は嘘であり、家康の侍医・板坂卜斎の記録によれば旗印も別に、隊列も組まずに急に向かったようである。このままでは徳川の天下も何もなくなってしまうであろうから当然であろう。

家康が美濃赤坂に到着した時、後の江戸幕府老中・本多忠勝が「お人払いを…」と家康の輿に寄ってなにごとかささやいた。小早川秀秋の寝返り契約完了の報告であった。

「小早川秀秋が寝返ったぞ!合戦は勝ったぞ!」

家康が叫ぶと徳川方は一斉に歓喜したと『黒田家譜』は伝える。

逆に、徳川方の田中吉政が豊臣方に寝返るという誤報が石田三成に届いており、夜襲を主張する島津義弘との間に議論があったらしい。

「家康めが到着したそうでごわす。ここは夜討ちしもっそ」
「いやいや島津老、そこは不要ですよ。徳川方の田中吉政が我が方に内通しておりましてねえ、合戦は当方の必勝ですから」
「じゃっどん、いくさっちゅうもんはそんなもんではなか。そういう返り忠っちゅうもんは現場の動きでどうなるか分かりもはんど。徳川方はいま疲れて寝ておるじゃろが、そこを叩かんでどうする」
「いやしかしですねえ、我軍のほうが多いんですよ」

石田三成は最後まで判断ミスを続けていたようである。しかもその後、大垣籠城はまずいと言い出し、雨が降っている夜中に関ヶ原へ移動してしまったというからこの人は何を考えていたのであろうか。
「雨がやんでいないのに、家康がそんなに怖いのか?せめて雨がやんでから動けばいいのに…」と豊臣方の兵士たちはウワサをこそこそとし始めていた。

関ヶ原の戦いはあっけなく終わったようである。後世の軍記物には豊臣方、石田三成たちの勇戦が物語られているが、どうも創作らしい。『当代記』にはこうある。

「関ヶ原で石田三成たちが布陣している所に、小早川秀秋が寝返って攻撃し、石田は敗走し、数百人が討ち死にした」

たったこれだけである。世にいう関が原の戦いは想像以上にあっけなく済んでしまったようだ。
『当代記』でも『黒田家譜』でも岐阜落城の話のほうが分量が多いのである。


 





Q&A 原田伊織のサムライエッセー批判まとめ

目次:
1,原田伊織氏のサムライエッセーとはなんですか?
2,原田伊織氏とはどういう方ですか?
3,『明治維新という過ち』は隠された真実を描き出すものでしょうか?長州テロリストの悪事はすべて隠蔽されたのでしょうか?
4,「その場に佇めば歴史事実がわかる」とはどういうことですか?
5,幾らなんでも江戸しぐさとは同列に扱うのはおかしいんじゃないですか?
6, 参考文献が68冊もあるのですからその中には史料もあるでしょう。小説ばかりという批判はよくないのでは?
7,長州が明治以降の日本を捻じ曲げて侵略戦争を始めたのは事実ではないのですか?
8,今の安倍政権は薩長政権だと原田伊織氏は断言していますが本当ですか?
9,「攘夷」「維新」「国体」「志士」などの言葉は水戸学や長州テロリストの創作なのですか? 

10,教科書会社は原田伊織氏とどういう関係にありますか? 

1,原田伊織氏のサムライエッセーとはなんですか?

作家の原田伊織氏の本の総称のようです。
原田伊織氏の公式サイトでは自分の著作のことを「サムライエッセー」と呼んでいます。

2,原田伊織氏とはどういう方ですか?

本名は原正和というようで、公式プロフィールは下記のとおりです。自分でも言われていますが歴史学を学んだことはないようです。元々は七十年安保の闘士だったと自分で言われています。その闘争時の体験が、氏の独特の歴史観を作ったと述べています。
【原田伊織プロフィール】

作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加した
マーケティングの専門家でもある。

株式会社Jプロジェクト代表取締役。
1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、
彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。
おもな著書に、『原田伊織の晴耕雨読な日々』『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』
『官賊と幕臣たち』『夏が逝く瞬間』(以上、毎日ワンズ)、
『大西郷という虚像』(悟空出版)など。

 (http://j-project.biz/iori_harada.htmlより)

私は七十年安保動乱を「右翼反動軍国主義者」のレッテルを貼られた僅かな「反動勢力」として、「極左暴力集団」といってもいい「全共闘」や日本共産党の支配下にある「民青」と闘っていた。
勿論、私は右翼でも、益して軍国主義者でもなかったが、左翼と称される者は、自分たちの主張に賛同しない者はすべて「右翼軍国主義者」と決めつけたものであった。

まるで「爆弾三勇士」のような格好の五~六名で太い丸太を抱え、塩酸・硫酸ビンが顔面めがけて飛んでくる恐怖にたじろぎながら、それを投げつけてくる全共闘系のヘルメット学生が築いたバリケードに向かって突進していった。

足許でビンが破裂し、床が焦げる匂いは、今も鼻に残っている。

この時点で、正義は左翼暴力革命勢力の全共闘サイドにあり、数えるほどもいない私たちは「軍国主義」に肩入れする「日本人民の敵」である。

私の大学でも、学生の九十五パーセント以上が民青や全共闘か、そのシンパであった時代、社会全体を左翼思想が支配しており、それが正義であった。

もし、私が長州を助け白馬で疾駆する鞍馬天狗に興奮していた時代のままの思想傾向を保持したまま成長していれば、私もバリケードの内側から火炎ビンや硫酸ビンを投げる側にいただろう。

僅か十年で私を根底から変えてしまった最初のきっかけ……それが「廃仏毀釈」という、俗にいう「明治維新」というものを象徴する言葉であった。
原田伊織. 明治維新という過ち 【改訂増補版】: ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~ (Kindle の位置No.197-209). Mainichi Ones. Kindle 版.
3,『明治維新という過ち』は隠された真実を描き出すものでしょうか?

そういうには余りにも疑問が多いです。「長州テロリスト」(原田伊織氏の造語)の話も、かなり怪しいです。

まず、原田伊織氏が「発見」した話は「明治維新はなかったろう論」のように辞書も引かずに思いついたものが多く、それ以外の話は小説から取ったのではないかという物が多いのです。単純な事実誤認もかなり多いです。
例えば、原田伊織氏は「大和四大寺」の内山永久寺を「我が国四大寺院」とし、建物が移築現存しているのをすべて破壊されたと誤認しています。
興福寺と共に我が国四大寺の一つという格式を誇った内山永久寺 に 至っ ては、 更に 酷い もの で、 徹底的 に 破壊 さ れ 尽くし、 今や その 痕跡 さえ み られ ない。 姿 を 残し て い ない の だ。 この世 から 抹殺 さ れ て しまっ た ので ある。
原田伊織. 明治維新という過ち 【改訂増補版】: ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~ (Kindle の位置No.255-257). Mainichi Ones. Kindle 版. 
原田伊織氏は現地に行っていないようですが(現場に佇めば歴史がわかるって行ってなかったっけ?)内山永久寺の建造物は移築現存しているものもあります。例えば、内山永久寺鎮守社は石上神宮に移築されて現存しています(下の写真。画像はウィキペディアより)。しかもこの社殿の移築は大正年間ですので、原田伊織氏が断言する「この世から抹殺された!」というのは実に大正時代になります。随分悠長なテロですね?

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この寺院が廃墟となった理由は原田伊織氏が述べるような長州テロリストによるものではありません。


水戸藩関係の事実誤認は既に書きました。

他の事実誤認の例として「明治維新はなかったろう論」があります。

これは、原田伊織氏が主張する「明治維新という名称は明治時代にはなく、昭和維新を起こしたテロリスト・右翼・軍人たちが流行らせた」「維新とか攘夷とかはテロリスト育成をしていた水戸学が創作した新語」というものです。

これは国語辞典をひくだけでも維新は『詩経』由来だということが分かりそうなものですし、江戸時代の平戸藩主・松浦静山が藩校に「維新館」とつけているぐらいで、水戸学創作説には何の根拠もありません。

明治維新という言葉は明治21年の小中村義象『大政三遷史』で「明治維新」という言葉が既に使われています。



維新という言葉そのものが明治時代の文献(例・明治五年の沖志楼主人『維新御布告往来』)などに出てくる始末です。

4,「その場に佇めば歴史事実がわかる」とはどういうことですか?
原田伊織氏が主張する歴史書の書き方です。彼は、「歴史資料は副次的なものであり、歴史上の事件が起こった現場に行けば、私にはその状況が浮かんで見えるんだ」と主張しています。
「近年は誰もが一次資料だ、二次資料だと騒ぎ立て、一次資料というだけで無条件に信じ込む単純さが幅を利かせているが、私はもともと書き物だけが資料だとは思っていない。
京都・八坂通りの夕靄の中に佇めば、会津藩士や新撰組隊士が腰をかがめて、長州のテロリストを求めて疾駆する姿が眼前に浮かび上がるだろう。二条城周辺の闇は、京都見廻組の幕臣に暗澹たる思いを強いたことであろう。そして、蛤御門に残る弾痕は、無防備な御所が紛れもなく天皇に殺意をもつ者によって砲撃されたことを訴えている。私の生地・伏見界隈では、豆腐屋のラッパさえもが騒乱の中で愛した男たちの非業を嘆く女郎たちの泣声のように聞こえる。
歴史を皮膚感覚で理解するとは、その場の空気を感じとることだ。歴史を学ぶとは年号を暗記することではなく、往時を生きた生身の人間の息吹を己の皮膚で感じることである。資料や伝聞は、その助けに過ぎない。そういう地道な作業の果てに、「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り、この社会に真っ当な倫理と論理が価値をもつ時代が再び訪れることはないであろう。」
原田伊織. 明治維新という過ち 【改訂増補版】: ~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~ (Kindle の位置No.163-173). Mainichi Ones. Kindle 版. 

史学は史料を基礎とするものなので、その時点でこの話は歴史学を越えてしまっています。これは一種の超能力だと思うのですが、原田伊織氏は、一体どうやってその能力を身に着けたのか、そして、客観的な史料と原田伊織氏が「その場の空気を感じ取って書いた」話とがどうしてこうも違うのか、説明はありません。

5,幾らなんでも江戸しぐさとは同列に扱うのはおかしいんじゃないですか?
「江戸しぐさ」の江戸っ子狩りは、会津での薩長の虐殺を強調しており、原田伊織氏とはよく似ています。

江戸しぐさでは「薩長は世界金融支配者の裏からの支援を受けて江戸っ子狩りを行った」(池田整治氏)としており、原田伊織氏は「坂本龍馬はグラバー商会の手先であり戊辰戦争を起こして金儲けを企んでいた」としています。

おそらく、戦後になって郷土史家が思いつきで発表した「会津観光史学」と言われる創作実話が、江戸しぐさにも原田伊織氏のサムライエッセーにも影響を与えているのだろうと思われます。

6, 参考文献が68冊もあるのですからその中には史料もあるでしょう。小説ばかりという批判はよくないのでは?


原田伊織氏の参考文献は『明治維新という過ち』では68点中35点(対談含む、51%)が小説家の手によるものです。同時代人が残した史料は『新撰組顛末記』わずか1点(これも大正期に新聞記者が取った聞き書きで信憑性はあやしい)です。古文書や当時の報道はゼロです。

参考文献の中で、原史料と言えそうなものはイザベラ・バード、永倉新八『新撰組顛末記』、『ベルツの日記』、山川菊栄『武家の女性』のわずか4点に過ぎず、うち幕末維新と直接関係するのは『新撰組顛末記』わずか1点です。

『ベルツの日記』を原田伊織氏はやけに強調しますが、この本は「日本人は過去の歴史を無視して嘆かわしい」という原田伊織氏にとって極めて都合のいい主張が出てくるので愛用しているようです。

当時の史料には、原田伊織氏の主張に全く合致しないものが多いのですが、そんなものは彼は使おうとしません。
「明治維新は土俗的な革命」だと述べ、明治の人々の江戸っ子的な気風を詳述するお雇い外国人のメーチニコフが書いた『回想の明治維新』(1888[明治21]~1889[明治22]のロシア紙の連載)や、

誤認逮捕された江戸っ子が自分と身重の妻を拷問した徳川幕府江戸町奉行所の理不尽さに怒り、
「実に徳川は亡びていい気味だと思うぐらいです」
と痛烈な批判をしている『幕末百話』(明治35年の報知新聞連載)は絶対に使わないと思います。
※ちなみに報知新聞は創業者も主筆も旧幕臣というガチガチの佐幕派。特に主筆の栗本鋤雲(くりもとじょうん)は、あの「鬼平」こと長谷川平蔵の甥。

幕末の徳川幕府はいろいろな面で統治能力を欠いており、特に法制や町奉行所は相当ひどいありさまで、明治政府になって改善されたために江戸っ子たちが喜んだ史実は今後も一切書かないと思います。

では原史料と小説家の本以外の本は何か?と申しますと郷土史家が書いたガイドブック類とどういうわけか民俗学の本、戦国時代の概説書など、幕末維新とどう関係するんだろうという本が多いのです。

戦国時代の概説書がなんで出てくるのかと言えば「長州テロリストと水戸藩は戦国時代に乱取りをしていた雑兵上がりのチンピラゴロツキの成れの果てであるから道徳観が薄く、平気で残虐行為をしていた」という原田伊織氏の説を補強するために藤木久志先生の本を持ち出したからです。徳川幕臣にも曲淵吉景(まがりぶち・よしかげ)のような雑兵上がりがいますし、「大名の先祖は野に伏し山に伏し」という古川柳を引用するまでもなく、出自定かならぬ武士はかなりいました。

特に江戸後期は農民出身や商人出身の武士が幕臣でも多く、元は豪農だった安生太左衛門の子で、火消し人足の上がりという噂まであるにも関わらず町奉行まで出世した根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)や、庄屋の息子だった幕末の幕府歩兵頭取の古屋佐久左衛門、古屋の弟で奥詰医師の高松凌雲(たかまつ・りょううん)など、原田伊織氏流に言えば「道徳観念の薄い庶民出身者のにわかザムライ」は、幕臣でも数えればきりがないほどです。もちろん榎本武揚(父が庄屋の息子)や近藤勇・土方歳三(家はいずれも農業)はいうまでもありません。

つまり、原田伊織氏の「サムライエッセー」は、「耳ざわりの良い日本スゴイ論を基礎にし、適当な小説を組み合わせて、今の日本の悪い状態の責任を全て長州と水戸におっかぶせ、まるで鬼畜外道のように描写し、都合の悪い話は書かない」という、マーケティング的には大変優れたものです。ある週刊誌が早速飛びついて連載をもたせるのも分かります。

歴史を語るという上ではどうかと思います。「はちま起稿」「ウェルク」の歴史版と言ってもいいと思います。

7,長州が明治以降の日本を捻じ曲げて侵略戦争を始めたのは事実ではないのですか?
昭和時代の指導者の多くは長州出身ではありません。

例えば東条英機は南部藩士の出身、山本五十六は同じく長岡藩、米内光政は庄内藩でいずれも奥羽越列藩同盟側の人であり、長州とは全然関係がありません。

最近の伊藤隆氏らの研究では、長州出身の元老・山県有朋が日中提携論を唱え、アメリカとも対立すべきではないと平和主義を説いていたのに、どちらかと言えば奥羽越列藩同盟系の人々が好戦的だったことが分かっています。山県と共に平和主義を説いていた原敬首相はテロで暗殺されていますが、犯人の大叔父は旧高遠藩出身で、長州とは無関係です。八幡和郎氏は原敬暗殺には会津藩士の影がちらついているとまで述べています。

むしろ戦前は白虎隊はファシズムの宣伝に使われており、ファシストの首領の一人・イタリアのムッソリーニ首相やナチス・ドイツが白虎隊を賞賛するモニュメントを会津の飯盛山に建立しています。 反ファシズム闘争を云々する人たちが、この会津飯盛山のムッソリーニやナチス記念碑について不問に付しているのは一体どういうことなのでしょうか。

8,今の安倍政権は薩長政権だと原田伊織氏は断言していますが本当ですか?

安倍晋三総理大臣(先祖は長州藩士で吉田松陰に兵法を授けた佐藤信寛)が長州出身ですが、 安倍さん以外の長州人は高村正彦自民党副総裁だけで、閣僚には居ません。薩摩出身者は閣僚・党三役まで含めてもゼロなので、なんでそういうのかよく分かりません。長州と薩摩の出身者が少なくとも内閣の殆どを占めていないと薩長政権とは言えそうもないと思います。

9,「攘夷」「維新」「国体」「志士」などの言葉は水戸学や長州テロリストの創作なのですか
これは、単純な誤りです。全て中国古代の漢籍に出典があります。

攘夷…『春秋公羊伝』僖公桓公救中國,而攘夷狄」(中国春秋時代の斉の桓公は中国を救い、夷狄を攘(う)ちはらった)

維新…『詩経』大雅「
周雖舊邦,其命維新。」(周は古い国家ではあるが、天命はいつまでも新しく、これからも栄えていく[諸橋轍次訳])

国体(
國體)…『三国志』文帝紀の裴松之注に引く『魏書』「文帝…其於聰明,通達國體」(魏の文帝曹丕[そうひ]は聡明な名君で、国の状況がよく分かっていた)

志士…『論語』・『孟子』など。朱熹は論語集注において「志士とは志がある士(下級貴族)のことである」と述べている。
 例えば、『三国志』・『文選』に載せる陸機『弁亡論』では、「是以忠臣競盡其謨,志士咸得肆力」(呉の孫策・孫権は優秀な人材を抜擢したので、忠臣は智謀を競い、志士もみな力を尽くした)とある。
 
謨は文選李善注によれば謀に同じ。いわゆる三国志の「軍師・名士」たちを「忠臣」と呼び、志士はこの文章の前半に「甘寧・凌統・程普・賀齊・朱桓・朱然の徒はその威を奮い、韓当・潘璋・黄蓋・蔣欽・周泰の属は其の力を宣べる。」とあるので、甘寧などの、呉の武将のことを「志士」と言ったのであろう。

いずれにせよ、江戸時代の武士であれば必ず読んでいたはずの四書五経や三国志が元ネタです。
10,教科書会社と原田伊織氏は関係がありますか?

実教出版という左派系の教科書会社があり、原田伊織氏を招いて話を聞いています。

地歴・公民資料81号(〈座談会〉「明治維新」の実相と歴史教育の課題を考える) 原田伊織・大庭邦彦

話の内容は、原田伊織氏の史観を聞き、教科書編集に役立てようというものらしいです。一つ、気になるのはこの出版社の人は史料と歴史小説を混同しているようで、原田伊織氏にも肯定的なのです。
このままでは原田伊織氏のサムライエッセーは史実として教科書に乗ってしまいかねないと思います。

「 幕末維新期を学習する際,「封建的な江戸幕府を倒した新政府が明治維新を成し遂げ,急速な近代化を進めて欧米列強の植民地化を免れた」という単純な図式で理解していないか。今回,『明治維新という過ち』(毎日ワンズ,2015 年)で問題提起をされた原田伊織氏と,幕末維新政治史研究も専門とされる大庭邦彦氏に,幕末維新の実像に迫っていただいた。

今回の座談会で,次の歴史を読み直す必要性を感じる。
1)小御所会議以降,徳川側の先見性ある挽回があったこと。それでは困る岩倉・西郷・大久保らが武力的反撃で強引に倒幕は進んだ。
2)奇兵隊はじめ,戊辰東北戦争(会津藩救済だけが目的)の際に「官軍」がどのような非道な態度をとったのか。

なお,安部龍太郎『維新の肖像』(潮出版社,2015年)では,長州藩が会津藩を徹底的につぶそうとし
た理由として,会津藩の松平容保(京都守護職)の信頼厚かった孝明天皇(公武合体を推進)を排除す
ること,イギリスとの密約(坂本龍馬はグラバー商会に頼まれてイギリスの「薩長同盟」支持を伝えた
だけ)があったことに触れている。」(前掲リンクより、丸付き数字は1)などに変更)

実教出版は、色々ある教科書会社の中でも左派色の強い記述で知られ、 「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保護するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述が東京都や大阪府の教育委員会で問題になった経緯があります。

私の個人的な意見を述べますと、左派、右派の教科書が別にあっても問題はないと思いますが、史実を捻じ曲げるのは困るなあと思います。 

水戸黄門は快楽殺人者で人間のクズってそりゃ言いすぎだよ 続「サムライ・エッセー」シリーズ・『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所

疲れきった仕事からの帰り道、書店で歴史書コーナーに行くのが僕の楽しみである。
ところが、この所どういうわけか行きつけの書店が

トンデモな真実の歴史に目覚めてしまった

らしく、 『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』などの原田伊織の「サムライ・エッセー」シリーズだの、フルベッキ写真だの大室天皇だの江戸しぐさだの、明智の子孫だのをやたらに歴史書コーナーに置きだして

「これが隠された歴史の真実」 

とやりだしてしまったんですね。まあそれで手に取った「サムライ・エッセー」シリーズの内容の強烈なこと強烈なこと。私、本当に精神値が削られてかなり辛かったね。(なお、サムライエッセーというのは原田伊織氏の公式ホームページで名乗っている名前である。)

「水戸黄門は人間のクズ」「水戸学はテロ思想」「郷土の偉人はテロ思想の神様」って、その言い方はないでしょう

なにしろ、『明治維新という過ち』第四章「テロを正当化した水戸学の狂気」は要約するとこんなんである。

「お前のふるさとの街を作った人間(徳川光圀)は人を斬ることに快感を覚えていたおかしい人間で、水戸学の書『大日本史』に藩のカネの三分の一をつぎこんだ人間のクズだ!いいことを何もしていない!」

水戸光圀は快楽殺人者で頻繁に試し切りをし、部下を公衆の面前で手打ちにしたりしていた。
江戸時代の武士が人をめったに切らなかったのにこいつは頭がおかしい人間だ!

「お前のふるさと水戸藩は愚劣という言葉もないほど愚劣などうしようもない所だ!」
「お前のふるさとの思想・水戸学はイスラム国と一緒だ!おかげでテロリストが出てきたじゃねえか!昭和維新とか言ってテロをやっていた橘孝三郎だの井上日召も水戸じゃねえか」
お前の郷土の偉人・藤田東湖は長州テロリストの神様!
「お前の先祖の主君は代々ろくでもない人間で、無差別殺人犯(光圀)だのキチガイの息子の嫁を襲って自殺させたセクハラ野郎(烈公)だのばかりだ!

しまいにはクズのドラ息子(一橋慶喜)が戦争から逃げ出して、家をつぶしてテロリストに殺人・暴行・略奪・放火などやりたいほうだいされた!
」 

そんなことばっかりめちゃめちゃに書いているんですぜ。幾らなんでもひどすぎやしませんか。
そういえば立花隆氏の親戚のおじさんの橘孝三郎氏の影響を受けただけで群馬生まれの井上日召まで水戸扱いになってるのもすごいね(水戸育ちの立花隆氏はけなさないのも謎だが)。

 私はいわゆるチバラキの住民で新横綱・稀勢の里の故郷、茨城県牛久市で青春時代を過ごしたのである。そして先祖の一族は一橋慶喜公に仕えて尊攘派に討たれている。そして水戸納豆は毎日食べている。今日も食べた。

そういう人間が「茨城憎し!水戸憎し!」の『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』などの原田伊織の「サムライ・エッセー」シリーズを読んだのだからたまらない。率直にひどいと思いましたね。

あんまりだ。水戸や茨城県がそんなに憎いのか。原田伊織の「サムライ・エッセー」というのはそういう点で余りにもひどいものである。そして、それが史実に基づいていればまだガマンもできようが、以下に書くように根拠が怪しい話ばかりなので、幾らなんでも誹謗中傷がすぎるんじゃないかと思うんですよね。本当に茨城や水戸に謝ってほしい。 

まず、この本は群馬出身者を水戸扱いするなどずさんなのだが、もっともらしく書かれている内容がほとんど裏とりすると怪しいのである。

1,徳川光圀が藩の財政の三分の一を水戸学につぎ込んだという話
これは戦前の徳富蘇峰が講演で言い出したことのようだが、かなり怪しい。水戸藩の財政はかなり苦しく、『藩史事典』でもこの頃から紙の専売制をやったり光圀が藩政に苦労した話を載せている。そもそもそんなにカネがかかるのか?

2,徳川光圀快楽殺人者説
これも怪しい。よくコンビニ本にその手のライターの妄想が書いてあるがそこら辺から持ってきたのだろうか。

そもそも前提条件の「江戸時代の武士はあまり人を切らなかった」という話が怪しい。光圀の江戸初期は平気で人を切っている。例えば肥前鍋島藩の二代藩主・鍋島勝茂は父の藩祖・鍋島直茂から「お前、人斬りの練習をやれ。大手門の前に下手人が十人いるから斬ってこい」と言われて九人斬ったという(『葉隠』)。

そもそも徳川光圀が頻繁に試し切りをした話はとんでもない誤解である。井上玄桐『玄桐筆記』によると、一回だけ夜中に同行者(名前を伏せているが光圀に無理やり命令しているところから見て相当高位の人だろう。家光?)に命令されて斬ってやめてしまったという。問答を意訳すると、
ある人「お前、人斬れよ。試し切りも出来ねえのかよ、本当に臆病だな」
光圀「そんなこと言われても罪のない人を斬るなんてひどい話じゃないですか、僕はやりませんよ」ある人「何言ってやがる。テメエが腰抜けで人間のクズだから人も斬れねえんだろうが!斬ってこいやオラッ!」
光圀「……そこまで言われるのでしたらもう仕方ないです、斬ります」
と言って非人が4,5人その辺に寝ていたのを「すまないが人を斬れと言われたので申し訳ない、本当に前世が悪かったと諦めてくれ」と一人斬ったが、非人たちから「あまりにもひどすぎる」と抗議されて「こんな人斬り好きな人とは思わなかった。もう二度とお供はしないようにしよう」と思い、その後二度とその人(多分、三代将軍家光)とは一緒に歩かなかったという。これで光圀が快楽殺人者にされるのではアンマリというものだ。

たしかに現代の目から見れば光圀はひどい。しかし、この頃の将軍だの大名だのは平気で人を殺しているのである。光圀はむしろそれを拒絶し、否定する側の人だったようである。

3,徳川斉昭がセクハラ野郎だったという話

原田伊織氏は確定した史実のように「長男の嫁に手を出しそれが元で彼女は自殺している、斉昭の淫乱ぶりがうかがい知れよう」※1と断言しているが、これは元々三田村鳶魚が勝手にそう思い込んだだけの話である。史料はない。

※1『明治維新という過ち』第四章「テロを正当化した水戸学の狂気」より要約

長男の徳川慶篤の嫁さん・線姫(いとひめ)が22歳で急死したのを疑って、「これは斉昭がスケベだからなにかあったんだろう、自殺したんだろう」と著書『大名生活の内秘』で書いたのである。三田村鳶魚は江戸時代の男女関係については直ぐに芸能ゴシップのようなことを書く人であまり信用できないし、鳶魚は徳川斉昭を嫌っている人なのでどうも信頼できない。

原田伊織氏は鳶魚の本を見ていないはずで(参考文献にない)、どこかで誇張された話を又聞きしたのではないか。なお、山川菊栄は線姫の死因を、お局様からのイジメを苦にした自殺ではないかとしている。斉昭関係ないじゃないか。 
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