群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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平成よ、これが徳川幕府旗本だー豊臣秀吉の孫、剣豪、青い目のサムライ、ゴッドハンドー

徳川幕府旗本については、小川恭一氏が『江戸の旗本事典』(講談社文庫)で出自から幾つかに分けているが、細分化されすぎて分かりにくいように思うので、小川氏の分類を元に私が以下の6種にまとめてみた。

1,関が原合戦以前の臣従(三河以来の旗本)
2,外様大名系
3,旧親藩藩士系
4,大奥関係
5,技能者系
6,御家人からの叩き上げ 

1,関が原合戦以前の臣従(三河以来の旗本)
いわゆる「三河以来の直参」などと言われる徳川家旧臣、譜代の旗本たちである。
厳密に言えば、「三河譜代」という分類はなく、安祥譜代・岡崎譜代・駿河譜代などに分けられるが、日光東照宮に家康とともに祀られた「徳川二十八神将」でもそれらの区別をしていない(なにしろ譜代筆頭の井伊家は駿河譜代だ)ので、どうも関ヶ原合戦以前の臣従者は一律で三河以来の旗本を名乗ってしまったらしい。
有名どころで言えば徳川四天王系の分家と大久保彦左衛門など。意外なことだが真田信尹もここに分類される(真田家は駿河譜代だったが、当主の昌幸が後に離反、真田信尹は徳川に残った為)。

やはり格式が高く、大岡越前守忠相・長谷川平蔵宣以・遠山金四郎景元といったいわゆる「名奉行」は徳川直参が多い。幕府中枢を担った人々であった。

2,外様大名系旗本
実はこれが意外と多いのですよ。どうも旗本というと「三河以来の旗本」以外イメージしづらいが、結構いる。
どういうわけか伝・豊臣秀頼の息子までいる[交代寄合の豊臣(木下)延次。大坂落城を逃げ延びて大分の豊臣残党・日出藩木下家に庇護されたというかなりウソっぽい伝承がある。実際は日出藩主の三男で分家した人物]。
秀吉の孫までいるぐらいだから、信長の子孫もいる。福島正則、柴田勝家の子孫もいる。ただ、やはり徳川直参に比べるとそれほど活躍していない。細々と血脈を保った、というのが多い。

3, 旧親藩藩士系
最近歴史学会で注目されているのがこのカテゴリ。というのは、徳川幕府を300年間存続させた原動力がここだと言われているからだ。

さて、徳川将軍は4代家綱までは直系相続できていたが、家綱が息子不在で死去すると、後継をどうするのか幕閣で議論になった。「宮様を京都からお連れしよう」という案まで出たが、「親藩の藩主で優秀な人を後継にする方がいい、分家とは言え血の繋がった男系子孫だ」ということで、館林藩主で成果を上げていた松平綱吉を後継者にした。これが徳川綱吉である。これ以降も「宗家が絶えると親藩から優秀な人を選ぶ」という制度が確立していく。

5代将軍・徳川綱吉←館林藩主・松平綱吉
6代将軍・徳川家宣←甲府藩主・徳川綱豊
8代将軍・徳川吉宗←紀州藩主・徳川吉宗
11代将軍・徳川家斉←一橋藩世子・一橋家斉
14代将軍・徳川家茂 ←紀州藩主・徳川慶福
15代将軍・徳川慶喜←一橋藩主・一橋慶喜(元は水戸藩主の七男)

さてこうなると、これらの親藩の藩士は「藩主が将軍になった場合、随行する」という形で旗本に転籍するのである。なかなか優秀な人が多く、柳沢吉保・荻原重秀・新井白石・有馬五郎左衛門氏倫など、有名人が多い(親藩時代に藩政改革で成果を出していた人が多いため)。

なお、明治政府になっても旧親藩藩士が明治新政府の財政を司っていたぐらいで、このカテゴリには財務官僚のパリパリが多い。

4,大奥関係
数は少ないが、春日局の縁者、桂昌院の縁者などが旗本になっている。

5, 技能者系
剣豪・棋士・西洋人・医師など、異能をもって特に召し抱えられた人々。
柳生但馬守宗矩、柳生十兵衛三厳、柳生又十郎宗冬の「柳生三代」、青い目のサムライとして知られるイギリス人の三浦按針、医師の緒方洪庵などがいる。

6,御家人からの叩き上げ 
幕末に多い人達で、勝海舟などがこれ。正確に言うと海舟の祖父・御家人の男谷平蔵が御家人から旗本・勘定に昇進、材木石奉行の末裔の勝家に平蔵の子・小吉が養子に入っている。 

漢籍紹介『通俗二十一史』

前回の「"不運"と"踊"っちまったんだよ的な文体はいつ生じたのか?~『通俗続三国志』・魯迅・吉川英治の流れ
でちょっと触れた、『通俗二十一史』について書いておきたい。これは、江戸時代に書かれた中国の歴史書の翻訳シリーズである。二十一史というと正史の翻訳みたいだが、必ずしもそうではない。
実は『三国志演義』にあやかって出された演義小説及び、日本人の漢学者が演義をまねて書いた「通俗物」と言われる中国歴史小説のシリーズなのであった。

まず、国立国会図書館のデータベースからシリーズの概要を引用しよう。
(http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001676246-00)

1巻 通俗十二朝軍談(李下散人)  通俗列国志 前編-一名・武王軍談(地以立)
第2巻 通俗列国志 後編-一名・呉越軍談(地以立)
通俗漢楚軍談(夢梅軒章峯,称好軒徽庵)
第3巻 通俗西漢紀事(称好軒徽庵) 通俗東漢紀事(称好軒徽庵)
第4,5巻 通俗三国志(湖南文山)
第6巻 通俗続三国志(中村昂然) 通俗戦国策(毛利瑚珀)
第7巻 通俗続後三国志(尾田玄古)
第8巻 通俗南北朝軍談(長崎一鶚) 通俗隋煬帝外史(煙水散人)
第9巻 通俗唐太宗軍鑑(夢梅軒章峯) 通俗唐玄宗軍談(中村昂然)
第10巻 通俗五代軍談(毛利瑚珀) 通俗宋史軍談(尾陽舎松下氏)
第11巻 通俗両国志(入江若水) 通俗宋元軍談(源忠孚) 鴉片戦志-原名海外新話(嶺田楓江)
第12巻 通俗元明軍談(岡島玉成) 通俗明清軍談(著者未詳) 髪賊乱志(曽根俊虎)

このシリーズの中で飛び抜けて有名なのが湖南文山『通俗三国志』で、要するに李卓吾本の『三国志演義』の「超訳」である。高島俊男氏らが指摘するように、忠実な翻訳ではない。ただ、江戸時代にはものすごいベストセラーであった。これに次ぐ人気だったのが『通俗漢楚軍談』で、横山光輝氏の漫画『項羽と劉邦 若き獅子たち』がこれに影響を受けたことでも知られる。

なお、三国与太噺さん が既に触れているように、(夢梅軒章峯、称好軒徽庵、湖南文山は、全員同一人物である。(天龍寺義轍・天龍寺月堂の兄弟)『通俗二十一史』全12巻のうち、実に4巻は天龍寺義轍・天龍寺月堂の兄弟が書いているのだからある意味すごい。日本文学史に残る兄弟作家ではないだろうか。

しかし、こうしてみると三国志、続三国志、続後三国志と「三匹が斬る!」のように三国志が続くのも異様である。日本人にとって中国史=三国志だったのがよく分かる。

なお、 通俗宋元軍談は日本人の漢学者が正史を元にオリジナルで書いた演義とされる。マカロニ・ウエスタンみたいなものだと思うのだが、どうも『元史』に引きづられたせいか非常におとなしくて中国人ぽいチンギスハンが登場するんだよなあ。

"不運"と"踊"っちまったんだよ的な文体はいつ生じたのか?~『通俗続三国志』・魯迅・吉川英治の流れ

新年明けましておめでとうございます。

新年早々、こういう話題が出ていたのでちょっと調べてみた。

"不運"と"踊"っちまったんだよ…特殊なルビが海外では「DEEP-FURIGANA」と呼ばれて悩みの種らしい

  実はこの特殊ルビ、ネット上ではマンガ『特攻の拓』などでやたらに使われていることが話題になっているが、これに限らずラノベなどでも大変おなじみの表記である。

DEEP-FURIGANAの他、「義訓」(ぎくん)ともいうそうだ。

この表記の古い例は、中国の文語体演義小説を翻訳した「通俗物」(つうぞくもの)と言われるものに頻出する。 例えば、以前にも記事にした通俗二十一史の一つ『通俗続三国志』ではDEEP-FURIGANA(義訓)が以下のように出てくる。

「晋の中護軍司馬雅……真一文字に殺(キ)って入る
謀事(ハカリゴト)
「ようやくに草命(イノチ)を脱(マヌガ)れ得たり
「趙王が曰く、此計(コノハカリゴト)甚だ妙なり」
商議(ハカリゴト)

『通俗続三国志』は江戸時代の宝永元年(1704年)に訳されたもので、この本は相当普及したらしい。なお、『通俗続三国志』の元ネタは明の酉陽野史(ゆうようやし)の演義小説『三国志後伝』である。

明治に入ると『通俗二十一史』の一つとして早稲田大学出版部から出版され、昭和の戦時中ぐらいまでは読者がかなりあったようだ。

例えば外務官僚の故・岡崎久彦氏の回想によると、『通俗二十一史』は岡崎氏の幼少時の愛読書だったそうである。(1)

(1)http://bungonosono.or.jp/Okazaki3/33.htmlによる。 なお、『通俗続三国志』については三国与太噺さんが詳しい。本稿でも参考にさせていただいた。

この、「通俗物」(つうぞくもの)の影響が漢文及び現代中国語小説の翻訳にも影響し、更にそれが日本の戦国時代の時代小説にまで影響していくのである。時代小説は演義小説の影響下に成立しているから。

幾つか例をあげよう。 例えば魯迅の現代日本語訳でもこのDEEP-FURIGANA(義訓)はよく使われている。

魯迅『阿Q正伝』の井上紅梅[1881年(明治14年) - 1949年(昭和24年)]訳より
「ずいぶん蒼蝿(うるさ)い」
羅馬(ローマ)字」
郡望(まつり)
「今度こそ阿Qは凹垂(へこた)れた」
青竜四百(ちんろんすーぱ)!」
井上紅梅は大正・昭和期の中国文学者で、麻雀のルールを日本に紹介したり、魯迅作品の翻訳をしたりした。「当時最大規模の明代白話小説集『今古奇観』の翻訳を刊行し、他にも『金瓶梅』『儒林外史』の翻訳も確認されるなど、中国小説の受容におけるパイオニアとして多大な貢献をしている」(2)人物である。

この翻訳は1932(昭和7)年11月18日に出版された改造社版『魯迅全集』が底本。(3)

(2)勝山稔『改造社版『魯迅全集』をめぐる井上紅梅の評価について』東北大学中国語学文学論集 第16号(2011年11月30日)より引用。
(3)青空文庫の刊記より。

その後の吉川英治『黒田如水』(初出は「週刊朝日」朝日新聞社、1943(昭和18)年1月~8月)にもしばしばDEEP-FURIGANA(義訓)が出現する。

ただし、『通俗続三国志』や井上紅梅訳『魯迅全集』に比べるとDEEP-FURIGANA(義訓)の出現頻度は相当落ちる。恐らくこのあたりがDEEP-FURIGANA(義訓)の日本文学での末期ではあるまいか。
吉田城へ質子(ひとじち)を入れられよ
其許(そこもと)
悪戯(いたずら)ざかり
コノ若殿、魁(サキガケ)御在(オワセ)
与君一夕話(きみにあたういっせきのはなし)
このように並べていくと分かるように、用例の殆どが漢文や現代中国語を翻訳しようとした結果として、漢文書き下しをフリガナにしてしまったり、現代中国語をいきなりフリガナ(いわゆるカタカナ中国語)に置き換えてしまうために生じたものである。
これらの文体は現代日本語の文が洗練されていくに従って徐々に消滅していった。

DEEP-FURIGANA(義訓)に恐らく決定的な打撃を与えたのは当用漢字の制定と現代仮名遣いの普及であろう。当用漢字制定時に訓読みも相当制限され、これまでのような自由な訓読みができなくなったのがDEEP-FURIGANA(義訓)の衰退を促進したのではあるまいか。

さて、DEEP-FURIGANA(義訓)は逆になぜ文学作品から姿を消し、ラノベやマンガにだけ残ったのか?

ここからは筆者の推測であるが、恐らくこんなことがあったのではないだろうか。 戦後の文化の中で、外国語の翻訳から影響を受けた最も大きいジャンルはSF小説である。

そして、SF小説の翻訳時にDEEP-FURIGANA(義訓)が多用され、それがSFの影響を受けたラノベに残存したのではないか。

また、呉智英氏などが指摘するように、「不良の漢字好き」が昭和の文化としてあり、そういう人々が吉川英治『三国志』などの影響でDEEP-FURIGANA(義訓)をよく用い、それがヤンキー文化として残った……ということではあるまいか。

以上、まだまだ用例数も少なく推測も多いが、一応考えてみた。
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