群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

webの仕事術…「お客様から案件をもらった時は質問しよう」

最近、webディレクションの仕事をしていて驚くのは、webデザイナーやコーダーの方々が得てして(いや、僕達ディレクターもそういう人はいるな…)、 「お客様は神様だから、言われたことは黙って何でもやる」 という思考を持ちすぎていることである。 私は営業マンも兼ねているので、営業技術ではここ最近「断るセールス」とか「営業はお願いせず、売ってあげるもの」というように言われているのを知っていた。ソリューションセールスでは極めて当たり前の手法である。 まさか、「お客様は神様だから、言われたことは黙って何でもやる」という古臭い昭和的な悪しき営業慣行が先進的なweb業界に残っており、「断るセールス」が浸透していないのに改めて衝撃を受けている。 営業の神様と言われた加賀田晃氏の名言を借りれば、 「自分が良いと信じたものを、相手のために断り切れない状態に誘導する」 のが正しい営業であり、「お客様は神様だから、言われたことは黙って何でもやる」というのはお客様のためにもならないのである。お客様の本来の意向もつかまえずに、「ハイ、出来ました」で持っていけばいいというものではない。お客様にも手間、自分たちの労働生産性も最悪になり、残業・徹夜を続けてしまうこの悪しき労働慣行を防ぐために、まずはお客様に「綺麗というと、さわやかな青系の写真を使って、文字は明朝斜体でまとめるという感じでしょうか?」などと提案を兼ねた質問をバンバン投げてみようではないか。

闇を斬る!大江戸犯科帳と史実(と大河ドラマ関係人物)

今CS時代劇専門チャンネルでやっているところの「闇を斬る!大江戸犯科帳」について、多少史実の時代劇とのすり合わせを備忘録的に書いておく。史実ではもっと濃いメンツが居たのになぜかそれらが全く出てこない微妙な時代劇である。

まず、この時代劇は徳川家斉の文化・文政年間にあったことになっている。ストーリーは、
幕末に近い文化・文政時代。長い権力の座と金権政治に慣れすぎた幕府の要人たちは、金満家たちと結託して、法の網をくぐって悪事を重ねていた。そんな悪に対して旗本三千石の大目付・一色由良之助(里見浩太朗)が闇奉行と称して立ち上がった。そんな一色に対して北町奉行・小笠原能登守泰久(西郷輝彦)は、法を守る町奉行の立場から闇奉行の存在を表向きには認めないが、いざ事件となれば影では一色を助け、二人は江戸に巣食う法で裁けぬ悪漢たちに立ち向かっていく!(http://www.jidaigeki.com/program/detail/jd00000242.html
というものである。
大変残念ながら、この時代劇の人物は主要人物は全て架空である。

里見浩太朗演じる主人公の大目付・一色由良之助だが、文政武鑑に

一色などという大目付は存在しない。 
この頃の大目付は朝比奈河内守など5名である。
更に言えば、町奉行にも小笠原能登守泰久なる人物は存在しない。

余談ながら、この頃の幕閣は大河ドラマクラスタ的には思わず吹いてしまうような布陣になっているので、以下に追記したい。
まず、御留守居役だが、
「黙れ小童ぁああ!!」(憤怒)
muroga

あの、真田丸でお馴染みの室賀正武の子孫・室賀山城守政頼である。

文政武鑑(室賀)

(国立国会図書館デジタルコレクション「文政武鑑」より)

その同僚が柳生十兵衛の子孫の柳生久通と、ゲヒ殿こと古田織部の子孫の中川飛騨守というのは、
どういう配列なんでしょうか。 老中は本多平八郎忠籌(ただかず)。本多忠勝の8代目の子孫。
大名火消は黒田甲斐守(下の名前未詳)。黒田官兵衛の子孫の誰かだと思う。 
 

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

八切止夫氏は異端の歴史作家と言われ、新左翼運動にかなりの影響力を持ったとされる。若いころの文章はともかく、晩年のその主張ははっきり言えば「電波」の一言に尽きる。江戸しぐさの江戸っ子大虐殺レベルの主張を「真の歴史」と吹聴し、それを信じこむひとが多いのは困ったことである。

 今更、随分前に亡くなられた方の説を批判するのも気が引けるが、こういう電波を信じこむ野党の政治家が出てきているのだから、批判せざるを得ない。

このような偽史については、既に原田実先生や佐々木俊尚氏の論考で批判されているが、まだまだ偽史を街頭演説した人間に23万票も入ってしまうのだから、地道に批判していくしかあるまい。

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

 http://www.rekishi.info/library/yagiri/より
「純正日本史案内」 

なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。
八切氏はこの「藤原鎌足中国人」説を長年主張され、信者も多く、「郭ムソウ」でググるとこの節の信奉者がバカンバカン出てきて頭が痛くなるが、なにか八切氏は根本的に誤解されているようである。そもそも「唐の大宝律令」なんぞというものはない。大宝律令は日本製である。

 
郭務悰(ムソウ)という人物も、八切氏が思っているほど大物ではないのである。大化の改新の後に来朝した唐の木っ端役人、田舎の副市長のお付きに過ぎない。大和朝廷もまともに扱っていない。
郭務悰 かく-むそう ?-? 唐(中国)の官吏。 白村江(はくそんこう)の戦いの戦後処理のため,唐の百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅう-じんがん)の命で天智(てんじ)天皇3年(664)来日。朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国,翌年唐使劉徳高とともに来日。さらに10年百済の難民二千余人をひきいて来日したが,翌年筑紫(つくし)で天智天皇の死を知らされ帰国した。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)ってそれ以前に日本に居たんだよなあ。なにしろこの郭ムソウさんが来たのは大化の改新の後なのである。郭ムソウさん、柱国という一見凄そうな肩書を持っているのだが、唐代の柱国というのは単なる勲章である。官位も従五品下・朝散大夫と低く、大和朝廷からも「なんだこの使い走り」だと思われていた人である。どう考えても藤原鎌足になれそうもない。

しかし八切さん、「武鑑」を読んでいた割に「朝散大夫」というのが大した官位でないことが分からないんですかね。日本の江戸時代の制度でも、朝散大夫というのは大名の最下級、従五位下の異名なのである。例えば浅野内匠頭も「朝散大夫」であった。

おまけに、郭ムソウさんは唐の正使・沂州(ぎしゅう)司馬の劉徳高(これがまた大した官位ではない。副市長程度の人である)の子分なのである。日本書紀では「劉徳高など」と、「ら様」扱いを受けてしまっている始末である。沂州というのも人口19万の田舎町で、水滸伝にモデルにされた人物が出てくる、王倫(おうりん)という小悪党の在所である。
沂州,中國古代設置的一個州,治所在今山東省臨沂市。北周改北徐州為沂州,因沂河而得名。治所在即丘縣(今山東省臨沂市東南)。唐朝將州治遷到臨沂縣。曾改名為琅邪郡。土貢:紫石、鍾乳。戸三萬三千五百一十。口十九萬五千七百三十七。北宋王倫在沂州起義。(https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B2%82%E5%B7%9E)

中臣鎌足はこの頃既に、内臣(後の内大臣…内閣総理大臣代理)なんだよね。

田舎の副市長の随員程度の郭ムソウさんが、今で言えばバリバリ働いている副総理と入れ替わりになってしまうようなものだ。ありえないことである。

藤原氏も何もあったものではない。そもそも中臣鎌足は「白村江の戦いで勝てなくて申し訳ありませんでした」と死ぬ間際に天智天皇にお詫びしたような人である。唐の人であろうはずがない。

現代中国語を駆使する唐の人!


八切氏はこうもいうのだが、どうも八切氏の頭のなかの中国は唐も満洲国もゴチャゴチャなようである。(八切氏は戦時中の満洲にいた)
唐風にすべてが変り、「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、 「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽 生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。…(中略)…「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」  などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
それ、満洲国の話ですよね?

その持ち歩いていた書きつけ、中国語早覚えの急就篇(きゅうしゅうへん…今で言えば「旅の指差し会話帳」のようなもの)じゃないですかそれ…

そもそも、唐代の人がなんで現代中国語でしゃべるんですか…
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモ ッグ公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知れぬ。
藤原氏の名乗りは中臣鎌足が住んでいた高市郡藤原からですよ。

しかし、都合のいい時だけ漢音で漢字を読むんですね八切さん。唐の人は現代中国語で話していたのではなかったのですか?!

それからスモッグ公害、唐でも無いと思いますよ…

出た!八切止夫十八番のコジツケ!
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。

なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。

「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人頭」というのもあって、「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
ここでいう、「といち」とは近世の俗語で、「上」の字を分割して「ト一」としたものだと辞書『大辞泉』にはある。
唐は関係ないと思う。
といち【ト一】

《「上」の字を分解して読んだもの。近世語》上等であること。特に、女性の器量が人並み以上であること。また、そのさま。
「これは―なお嬢様」〈伎・青砥稿〉(松平注:白波五人男のこと)(デジタル大辞泉より)

江戸しぐさレベルのヨタを平気で書いちゃうんだよな…八切氏はこの頃になるとほとんど調べず、記憶に頼って書いていたようである。そして「歴史の裏面を史料に頼らずに書く」と主張していた。昔かなり勉強されたのは分かるのだが、もう少し調べたほうが良かったのではないか。

 
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