群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

そして3月11日が巡ってきた

あの忌まわしい日からようやく1年が経った。1年経ってようやく少し振りかえれるような気がする。

あの日、私は神奈川県の客先から帰る途中で、途中で電車が止まって帰れなくなり、そのまま漫喫で
一夜を明かしたのを覚えている。テレビで見る東北の惨状すさまじかったが、私はとにかく何とかして
生きなければならないと考えていた。不安な一夜を明かしたが、眠れなかった。その日は
夜中全く眠れなかったので持っていた中谷厳氏の「資本主義は何故自壊したのか」を読んでいたが、
読んでも読んでも机上の空論のように思えた。そこでマンガ喫茶で本宮ひろ志のマンガ「猛き黄金の国 道三」
を借りて読んだが、こっちの方がよほど慰めになった。東北の惨状、周囲の状況を考えると日本はどうなるかと
不安であった。斎藤道三の力強い生き方を読んで「自分の道は自分で切り開くのみだ」と思った。

家に帰り着いたのは翌日の12時過ぎ。結局神奈川を出た後都営線と東京メトロ千代田線以外は動かなかった。
JR常磐線は確か3月14日まで動かなかったと記憶している。家に帰ると植木は倒れ床にガラスと本が散乱していて
片付けにまる1日かかった。15日電車動く。出勤しても営業活動が中々十分に進まず。千葉には物資が余り
なく、アメ横で物を買って帰ったりしていた。電車がまともに動かないので電車の中で将棋の本ばかり
読んでいた(詰将棋や定跡を頭の中で考えていると気がまぎれるので)。

今日は震災のことをテレビや新聞で見ていたが、東北の状況は私などよりも遥かにひどいものであった、
想像をはるかに超えて恐ろしい状態だったのだと知り謹んで犠牲者の冥福を祈るのみである。

平清盛のビデオリサーチ視聴率が悪かった。でも、視聴率が悪ければ悪い番組ではないよという話

掲題の件、報道の通り、非常にビデオリサーチの視聴率が悪かったということです。
そのため、大河ドラマ「平清盛」を褒める意見も殆ど無く、失敗だ失敗だと騒ぐ連中が多く、
大変がっかりしております。
まず、日経の記事を引きます。
「8日に放送が始まったNHK大河ドラマ「平清盛」の初回視聴率(総合テレビ)が関東地区で17.3%、関西地区で18.8%だったことが10日、ビデオリサーチの調査で分かった。

 昨年の「江~姫たちの戦国~」の初回視聴率は関東21.7%、関西20.9%だった。歴代大河ドラマの関東地区での初回視聴率としては、調査方法が現在とは異なるものも含まれるが、1989年の「春日局」14.3%や77年の「花神」16.5%に次ぎ、72年「新・平家物語」と並ぶ過去3番目の低視聴率となった。〔共同〕」
日経は単に事実を書いているだけですが、低俗な週刊誌やニュースサイトではこの数値を元に直ちに「平清盛」は失敗とかき立てている所があるのは非常に嘆かわしい限りです。
なんぼなんでも、あのドラマはそれほど批判されるものとは思えませんでした。忠盛のアクションもいいですし、子役の坊やも大変上手でした。ボクは取り敢えず次回も見ますよ。ボクは天邪鬼な所があり、家政婦のミタ、でしたか、ああいう高視聴率のドラマはなぜか嫌いで、見る気がしないのです。

ひとつ言いたいことがあります。

視聴率というのはひとつの統計指標(しかも、サンプル数の極めて少ない統計で、あまり正確な数値でもない!)に過ぎない。一つの統計指標をここまで血眼になって騒ぎまわり、視聴率が高ければ良い作品、悪ければ悪い作品と判断するのは、ちょっとおかしい。
広告業界や、マーケティング関係者の間では視聴率という指標はとっくに重要視されなくなっている。騒いでいるのは一部の芸能メディアだけだ。

少し上記の話は説明が必要でしょう。まず視聴率というのは関東全域1779万世帯の中から、わずか600世帯を対象として集計しているのです。統計というのはどんな小さいサンプルでも一応は取れるものですが、それにしても少ないです。

雑誌「財界展望」1月号で、各社のテレビCM担当者の座談会が出ていますが、一様に視聴率を信用していないようでした。私もwebプロモーションの傍ら、メディアミックスを提案することもあり、テレビやラジオのCMをお話することもあるのですが、お客様とお話する時に、視聴率だけでお話することはまずありません。番組や出演者のネット上でのインデックス数、月間検索数、雑誌紹介記事等を含めて総合的に判断して頂いているのです。最近のお客様も、視聴率だけでは納得される方は中々いないと思います。みなさん、広告のプロですし…

「NHK「平清盛」、初回視聴率が歴代ワースト3 「惨敗」は昨夏から決まっていた!」等という馬鹿げた報道をしているサイトがあります。視聴率信仰も程々にしたほうが良いと思います。

ネット上で大騒動!大河ドラマ「平清盛」における「王家」という言葉の由来とは?

大河ドラマ「平清盛」で「王家」という表現がよく出てくるのですが、これについてネット上では大議論をやっている掲示板もあります。

論点をまとめてみますと、
肯定派…王家という表現は当時の史料に色々出てくるから問題はない。
天皇家とか、皇室とかいう表現は明治以降の言葉だから、逆に、当時の子供がしゃべっているのはおかしい。

否定派…王家という言葉は聞いたこともない言葉で歴史的におかしいのではないか。天皇家というべきだ。

ということのようです。これはどちらが正しいのでしょうか。結論から申し上げますと、まだ調べは十分行き届いていないものの、肯定派の方がやや主張に無理がないように思われます。

1,「王家」という表現は史料に色々登場しているというのは、事実である。南北朝時代の天皇陛下ご自筆の日記等に出てくる。

例えば、北畠親房『神皇正統記』では、
「これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき。この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。天下の諸国は半(なかば)すぐるまで家領(けりやう)となし、官位は多く一門家僕(かぼく)にふさげたり。王家(わうか)の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましき。」
「頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよいよおとろへにき。」
というように、ちょうど源平合戦の頃の天皇家を表現して「王家」といっているのです。
(引用はhttp://www.j-texts.com/chusei/rek/jinno.htmlより)
なお、2ちゃんねるでは王家という表現が出てくる資料として、下記のようなコピペが出回っているようですが、このコピペはどうなのでしょうか。
どうも疑問です。
・「聖徳太子伝暦」(917年、藤原兼輔)
・「神皇正統紀」(1339年、北畠親房)
・「大宝令」(701年)
・「養老令」(757年)
・「玉葉」(1164~1200年、九条兼実)
・「吾妻鏡」(1300年頃)
・「平家物語」(1309年以前)
・「花園天皇宸記」(1310~32年)
まず「大宝令」(701年) は完全に残っていません。電子テキストもないようです。確認はできない状態です。「養老令」(757年) は完全に残っていますが、「王家」として出てくるのは
ちょっと見た限りではありませんでした。ひょっとしたら神祇官の王家(白川伯王家)と混同しているのかも知れませんが、これは「平清盛」で言うところの王家と全然違います。
(以下引用)
これがのちの白川家で「伯家〔はくけ〕」とも呼ばれます。また、特に姓〔せい〕がなく「○○王」と名乗っているのを「王氏〔おうし〕」と言いますが、伯に任じられた人は臣下でありながら姓を棄てて王氏を称する習いが生じ、このことから白川家は「王家」とも呼ばれます。(http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_kan_jingi.html)

平家物語は元和九年の流布本で全文検索を掛けて見ましたが王家という言葉はヒットしません。
「花園天皇宸記」は巻3元弘元年十月の条に「王家之耻」という言葉が出ているので間違い無いと思われます。
確認できないのもありますが、取り敢えず現時点で裏が取れたのは南北朝期の『神皇正統記』『花園天皇宸記』の2つです。ただしこの2つは相当重い。軍記物のようなものではなく、朝廷の公式記録といっていいものだからです。
花園天皇宸記…95代天皇であらせられる花園天皇が、自筆で残された日記をまとめたもの。
神皇正統記…南朝の忠臣・北畠親房が後村上天皇に献上した書物。天皇家の万世一系を強調する狙いがある。

なお、鎌倉期に天皇家を何と言っていたのかは実は歴史学でも分かっていません。詳しくは下記のページを見てください。
http://ktbt-cinnamon.at.webry.info/201108/article_16.html

2,天皇家とか、皇室とかいう表現は明治以降の言葉だというのも正しそうである。詳しくは下記のブログ(産経新聞編集委員で時代劇の時代考証に詳しい大野敏明氏の「歴史ドラマのウソホント」を御覧ください。
(以下引用)
この会では千利休(石坂浩二)が「天皇」というが、当時は天皇とはいわない。「天子(てんし)様」とか「帝(みかど)」と言ったであろう。

 「天皇」と書いて「すめらみこと」と訓ずるが、これを音で「てんのう」と一般的に読むようになったのは、明治以降である。明治初年ですら、一般の武士は「天皇」といわれてもきょとんとしていて、「京の都の天子様」といわれて、ようやく理解できたといわれている。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/508679/

これ、実は昨年の大河ドラマ「江」の時代考証を批判する新聞のコラムなのですね。大野氏に批判されてNHKは今年改めたのではないでしょうか。
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