注)この記事は2013年8月に書かれたものです。この記事などを発端として「江戸しぐさ」批判がネット上で巻き起こりました。

江戸で一世を風靡していた(はず)の「江戸しぐさ」が消滅した理由として、江戸しぐさ関係者が多く言及するのは明治維新のときの弾圧、「江戸っ子狩り」である。江戸しぐさを伝える江戸講という組織が壊滅したばかりか、凄惨な弾圧が行われ多数の死者が出たというのである。そんなことはもちろん、歴史書に存在しないのだが、「江戸しぐさ」側ではそのように主張しているのだ。


先週出た漫画雑誌をパラパラめくっていると、みやわき心太郎『江戸しぐさ残すべし』という全40ページの漫画が載っていて、その作品によると明治維新の頃「江戸っ子狩り」による入牢、強制移住、虐殺などの大弾圧が行われたのだそうです。 (Pravdaの日記: 「江戸っ子狩り」はあったか?より)


特定非営利活動法人江戸しぐさ理事長である越川禮子氏は、著書で以下のように述べている。

第七章 抹殺された「江戸しぐさ」
「江戸しぐさ」の江戸は官軍によって葬り去られた、いってみれば江戸の陰の歴史だ。

旧・幕府側である町方たちは、江戸の町が官軍に占拠されたとき「二世紀半以上の繁栄と安泰を保証してくださった公方さま(将軍)に申しわけない」と店をしもうた屋(雨戸を締め切った家という意味)にしてしまったようだ。町屋ではすべて暖簾を下ろし、入り口はトッピンシャン(戸を締める音)と閉ざした。この時、重要な家訓、記録などを燃やし、その火が江戸の空を焦がしたという。

吹き荒れた江戸っ子狩り
 明治政府は江戸のカラーを取り去ることに全力を注いだ。そのため、江戸の町方や町衆の多くは、親類や知人を頼って江戸を離れ、地方に身をひそめた。世にこれを「隠れ江戸っ子」という。今なら江戸難民だ。勝海舟(一八二三~一八九九年)はこのとき、講のネットワークにおふれを出し、船を使い、ピストン輸送で両国から、武蔵、上総などに何万という人々を逃したそうだ。
 江戸の町は猫一匹いなくなるという情況で、小僧がたった一人、店の留守番をしていたそうだ。

(中略)
江戸っ子を一部の官軍は目の色を変えて追い回した。「江戸っ子狩り」は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は「江戸しぐさ」。ことに女、子どもが狙われた。私達の目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデットニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが……。遠く逃れてきた江戸っ子をかばい、自分自身も官軍に痛めつけられた函館の人々の子孫たちは、今だにそのときの残忍ぶりを語り続けていると聞いたこともある。

多くの江戸っ子たちは、「江戸っ子狩り」の嵐が吹きすぎるまで、近くは神奈川、埼玉あたりに逃れ、世の中のようすをうかがいながらお互いの親睦を図っていた。

都内で「江戸しぐさ」が見られず、東京近郊や地方で脈々と受け継がれていたりする場面に、以前は遭遇することがあったが、それは逃れた江戸っ子たちが伝承していったからだ。

昭和一〇年ごろまでは、たとえば学芸会などで、「まあ、よいしぐさをなさって、あの先生は、きっと江戸ゆかりの方でしょうね」などと話し合っているのをよく耳にしたという。

(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』講談社プラスアルファ新書、2001、P156~P158)



越川女史自身、江戸しぐさ抹殺のための「江戸っ子大弾圧」はソンミ村虐殺、ウンデッド・ニー虐殺に匹敵したと言っておられますからね。その表現はみやわき心太郎先生の江戸しぐさ劇画でも踏襲されています(当然、芝三光さん段階ではそのような話はない)ツイッターでの原田実氏の発言


というのだが、果たしてそんなこと出来たのか?というのを考察してみたい。

例えば池田整治氏はhttp://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.aspで
以下のように言う。


心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。
ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。

 それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。(中略)

西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。

実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。


というのだが、実に恐れ入った話である。それにしても、文書として残されなかったものをどうやって越川氏や池田氏は知ったのだろうか?このような大掛かりな話を口伝えのみで伝えるというのも妙な話だ。それ以外にも謎の箇所が多すぎるように思う。

1)新政府軍に「江戸っ子狩り」なんかしている余裕はあるのか?
結論。ムリ。江戸っ子に逆に狩られている状態。

江戸開城前後の年表を確かめてみよう。(以下の日付はいずれも太陽暦)
1868年5月3日 江戸開城。徳川慶喜は水戸へ
同月 奥羽越列藩同盟結成
1868年5月24日 旧幕府軍の一部と新政府軍が市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で衝突。
1868年5月15日 旧幕府軍の彰義隊と新政府軍が上野で戦う(上野戦争)
1868年6月21日 越後長岡藩など5藩、新政府軍と断交、北越戦争開始
1868年8月28日 奥羽越列藩同盟の出羽庄内藩、山形・秋田方面の新政府軍と戦い、連戦連勝
1868年11月6日 会津藩降伏

…こんな具合で、旧幕府軍及び奥羽同盟軍が江戸開城直後は盛んに攻勢を東北地方でかけている状況だったのだ。そんな状況で、江戸に江戸っ子狩りなど出来る余計な兵士なんかいなかったと思いますよ?なにしろ、
北越戦争では一旦落とした城を奪還され、現在の山形県や秋田県は奥羽同盟軍の猛攻を受けていたのである。

しかも、奥羽同盟軍のうち、長岡・庄内などの各藩は洋式の最新鋭の軍団を持っており、新政府軍はしばしば劣勢であった。江戸っ子の中でイキのいいばくち打ちや町火消し等は、洋式装備を付け、大鳥圭介率いる伝習隊に入って奥羽同盟の精鋭部隊になったものも多くいるのである。伝習隊は会津戦争の後も箱館戦争まで戦い抜いているのだ。江戸しぐさ側が言う、「入牢・強制移住・虐殺」なんかが出来たのか?

更に、江戸開城当時の江戸っ子たちに子母澤寛らが聞き書きをとった『戊辰物語』(岩波文庫)によれば、しばしば官軍の兵士が江戸市中で彰義隊や江戸町人に襲われているのである。彰義隊には新門辰五郎のを組も協力しており、江戸町民は「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」ともてはやしたのは有名な話のはずなんだがなあ…

・吉原帰りの佐賀藩士3名が死体になって転がっていた
・薩摩藩士4名が江戸を歩いている時に彰義隊に襲われ、全員殺害された
・町人が官軍兵士の錦布切れを50枚も奪い取り、ついに捕まって斬られた

逆に官軍側も番太郎(辻番)を斬るなど、逆襲をしていたようだが、それにしても「江戸しぐさ」関係者がいう無力な江戸っ子像とは間逆である。

余談ながら、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」という話は、先だって亡くなった落語の立川談志師匠が『「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」なんてのをね、学校で教えないからいけないよ。』と落語の枕に振って歴史教育の貧困さを嘆いていたのだが、談志師匠没していくらもしない内に、「江戸っ子狩り」などという珍説がまかり通るようになってしまったのである。泉下の師匠もさぞ呆れていると思われる。

あまりにも「江戸しぐさ」の主張者たちは江戸っ子をなめすぎているように思われる。火事とけんかは江戸の華ですよ?

2)理屈として変だろ?
・そもそも論として、江戸の東側って森林あったっけ?川じゃないの
・そもそも江戸しぐさの体現者をどう判断しているのか?
・番頭(もしくは小僧)が何で無事なんだよ?
・発言ごとに内容がずれている理由はなんなんだろう?「入牢・強制移住・虐殺」と、「老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていった」とでは開きがあり過ぎないか?
・維新政府側に反対する側の史料なんて幾らでも公刊されているだろ?
・江戸町人が書いた史料も結構あるよね?江戸っ子狩りの形跡すらないんだけど?

2の件のうち、「川の話」はツイッター上でののまる氏にご教示を受けた。謹んで御礼申し上げる。
確かに江戸の東側は川ばっかりで、逃げにくいよなあ・・・

 維新政府側に反対する側の史料としては、すでに明治44年に『会津守護職始末』が会津の山川浩・健次郎の両名の作で出ており、内藤湖南が「維新史の史料について」で触れている。江戸しぐさ側が言うような江戸っ子狩りがあれば、それに類する史料があってしかるべきだと思うが、何も出してこないのは不自然である。

 江戸町人が書いた史料としては、『藤岡屋日記』『武江年表』(ぶこうねんぴょう)などがある。
情報屋をやっていた本屋の藤岡屋由蔵の『藤岡屋日記』は大部なので、とりあえずおく。

そのうち、江戸の町名主だった斎藤月岑(さいとう・げっしん)が明治15年(1882年)に出した
『武江年表』は、江戸市中の細々とした出来事まで細大漏らさず書いたものなのだが、それらしき描写がないどころか、上野戦争の直後でも隅田川花火大会を行い「絃歌喧しく、水陸の賑い大方ならず」とある始末である。さすがに歌舞伎見物の人は少なかったが、堀之内の厄除け祖師のご開帳などは随分賑わったし、明治天皇が江戸に入られた、いわゆる「事実上の江戸遷都」の時には、江戸の町民に酒とスルメが下賜され、かなり派手に町内でもお祭り騒ぎをしたようだ。ちなみに、江戸っ子狩りを匂わせるような描写すらない。江戸市中の見回りは諸藩が行っていたようだ。江戸っ子のネットワークを恐れていたんじゃないのか、明治政府?わざわざ酒まで配ってますよ?

もっというなら、町名主が記録を取っていたことを知らないようじゃ、江戸しぐさの連中は江戸学なんかを名乗る資格はなさそうだ。『武江年表』なんか町名主斎藤家三代に加え、歌舞伎通の松屋七兵衛こと関根只誠や、町年寄喜多村家の弟・喜多村信節など、町人ばかりで書き継いだ基礎資料ですよ?というより、江戸講はなんで町名主や町年寄を無視しているんだ?江戸幕府が定めた江戸の商人の筆頭は町年寄三家ですよ?

江戸しぐさ側でも


越川禮子さんによると、芝三光さんは「江戸に関する文献で信用できるのは明治10年からせいぜい20年までに出たもの」が口癖だった。(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/10/)


というのだから、明治十五年刊行の町人の記録『武江年表』を否定するのはまず出来なさそうである。