越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』では、徳川家康の江戸開府について、以下のように述べているが、
驚くなかれ、そのほとんどが歴史事実と異なる。伝承とはいえ、ここまでいい加減なものだと、果たして江戸しぐさの祖である芝三光という人の知識はどこまで本当なのか?

・徳川家康は名古屋から江戸に移った。
・家康が江戸に入ったのは関ヶ原の戦いに勝利した1600年。
・家康は江戸を100万都市にするべく、1600年から計画を始め、三年余を経た1603年に
幕府を開いた。
・家康は地方武士ではライフラインの整備は無理だと考え、大阪の住吉から1000人余りの商人を呼び寄せ、
彼らに江戸のまちづくりを任せた。彼らが江戸御用達商人の祖ではないか。
・江戸は発展し、荷物運搬用のエレベーターまであったので、明治期に外国に行った江戸っ子はエレベーターには全く驚かなかった。


更に、越川禮子・林田明大著『「江戸しぐさ」完全理解』では、更におどろくべきことが書かれている。

・幕府は(住吉から来た)江戸商人たちに、街向きのことには一切干渉しないと約束し、町人自治が守られた。
・江戸商人は町年寄三家を代表としており、その人々が培ったのが江戸しぐさである。
・江戸しぐさを知らない田舎者はスリに狙われた。


以下に、どのくらい「江戸しぐさ」側がとんでもないことを言っているのか、述べる。
・徳川家康は江戸以前は駿府に居城していた。名古屋はこの頃街すらなかった。

徳川家康公はこの師走に駿府の城にお移りになりました。浜松には元龜二年よりことしまで十六年間居られました。駿府の城は今川家滅亡の時に消失していたのを新たに築城され、五カ国(駿河・遠江・三河・甲斐・信濃。)の本城と定められ、御在城されたのです。(徳川実記・現代語訳)


・家康の江戸入りは1590年旧暦8月1日。(公称)一六〇〇年ではない。

又、旧領の五カ国は。秀吉に接収され、秀吉の配下に分け与えたので、徳川家は早く引き渡して江戸へ移れと命令がありました。よって、五カ国の諸有司・代官・下吏にいたるまでいそぎ招集して、関東八州の領地配分を家康公が命じられました。配分が終わったので、7月29日小田原城攻城の陣屋を出て、八月朔日(1日)江戶城に入られました。ここに徳川幕府繁栄の基礎を築かれたのです。(徳川実記・現代語訳)

なお、さすがに恥ずかしいと思ったのか、NPO法人「江戸しぐさ」のwebページでは、「徳川家康が秀吉の命で江戸に入ったのは1590年8月1日。」(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/)となっている。

※実は、8月1日と言い切っちゃうのも微妙なんだよね。8月1日江戸入城というのは公称だったようで、それ以前から家康は江戸城にいたのだが、後にキリの良い8月1日を「江戸討ち入りの日」と定めたというのが真相らしい。


家康が江戸城及び市街地整備を行わせたのはほとんど武士もしくは武士出身の町人。例えば本多正信(江戸埋め立て)であり大久保主水(神田上水の責任者)である。彼らはそれこそ血のにじむような努力で江戸の街を作ったのである。

江戸中の普請も、毎朝午前四時から譜代の大名家が残らず提灯を立てて工事をしました。風雨・雪が降る中でも休まずに行いました。私達はお大名よりも早く出勤し、夜のうちから仕事をしていました。夕飯は宿舎で食べました。宿舎では火で温めてくれました。侍大将も与力・同心たちも同じようにクワを取り、モッコを担いだものです。
(鈴木理生『大江戸の正体』に引く、当時の旗本の記録・石川正西『正西聞見集』を現代語訳)


こういう先人の努力を無視するのは江戸っ子として情けなくないか?

・エレベーターが日本に出来たのは1890年11月10日。東京浅草の凌雲閣に設置。江戸末期に徳川斉昭が軽いものを釣り上げて運ぶ装置を作っており、それと混同しているのだろうか?少なくとも江戸の街にエレベーターがグングン動いていたとは考えづらい。
町年寄三家に大阪住吉商人など存在しない。奈良屋は奈良出身、樽屋は岡崎藩主水野家の一門、喜多村は金沢出身。というより大阪住吉に商人の集団なんかあったのだろうか?

前にも述べたように、町年寄の書き継いだ『武江年表』に江戸しぐさだの江戸っ子狩りだの書かれてないんだけどね

なお、NPO法人「江戸しぐさ」のwebページでは、突っ込まれたのか、「大阪住吉商人」の言葉が消え、「豊臣との天下分け目の戦に臨んだ家康を近江商人はいち早く支援、全国の情報を伝えた。家康はその労を多とし、全国を自由に往来できる手形を与えた。
「江戸しぐさ」の基盤をなす、中江藤樹の教えが全国に広がった要因のひとつだ。」(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/)と、近江商人に置き換えてしまい、江戸しぐさを実在する中江藤樹の教えと結びつけようと苦心しているが、中江藤樹が生まれたのは1608年で、家康江戸入城の28年も後のことですね。

近江商人四家のうち一家は日本橋西川(現・西川産業)なんだけどなあ。西川産業のwebページの歴史の項目(かなり詳細)には、江戸しぐさのエの字もないですね。


今回引用した史料の原文。

君(注:徳川家康)はこの師走に駿府の城にうつらせ給ふ。濵松には元龜二年よりことしまで十六年が間おはしましぬ。駿府の城は今川亡し時燒うせけるを新に經營せられ。五ケ國 (駿遠三甲信。)の本府と定められ御在城ましましたるなり。(徳川実記)



又御舊領五ケ國は。秀吉賜はりて旗下の諸將に配分なさまほし。早く引渡し給はるべしとあり。よて五ケ國の諸有司代官下吏にいたるまでいそぎ召よせ。關東八州の地割を命ぜられ。事とゝのひしかば七月廿九日小田原を御發輿ありて。八月朔日江戶城にうつらせ給ひ。萬歲千秋天長地久の基を開かせ給ふ。(徳川実記)