古い日本史事典(旧版・角川日本史事典 昭和四一年 高柳光寿・竹内理三編)の
斎藤義龍の項目では、

「1527ー61(大永7-永禄4) 戦国大名。道三の子。母三芳野は美濃守護斎藤頼芸の側室で義龍を宿して道三に嫁してのちに生んだと言われる。はじめ新九郎高政と称し(以下略)」 

と、斎藤高政→斎藤義龍と改名したとしていたが、これは現在では誤りだとわかっていると思われる。 なにしろ弘治2年(1556年)9月の「斎藤高政安堵状」、翌3年の斎藤高政名での「織田信成(武蔵守)宛書状 ※1」が残っているのだ。

※1 勿論、例のフィギュア選手氏ではなく、俗に「織田勘十郎信行」と言われる信長の弟である。 

ところが、この旧版「角川日本史事典」 の影響力は意外に侮れないようで、マンガ「斎藤道三」(本宮ひろ志)では「斎藤新九郎高政」名で長良川合戦までずっと登場しているし、未だに「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」などでは「初名・高政、利尚」が踏襲されているのである。

ちゃんと書いてあるのは谷口研語先生が書かれた「朝日日本歴史人物事典」の斎藤義龍の項目くらいである。

なお、この斎藤義龍、名乗りが色いろある。この際なのでまとめて考察してみよう。

斎藤義糺 群書類従本「江濃記」の表記。行書「龍」の読み誤りのような気がする。
斎藤義辰 寛政譜「松波氏系譜」の表記。辰と龍は同義。

斎藤范可 この表記が一番謎である。自筆署名(『美江寺文書』)に書かれているのだが、
「信長公記」には、「范可は唐の人で、親を殺して孝行を為した人物なので道三を討った後に改名した」とあるのだが、「斎藤范可」名の文書は道三を討つ前に出されている。

さらに、『新唐書』『旧唐書』『資治通鑑』『全唐詩』いずれで検索しても「范可」はヒットしない。ただ、 『新唐書』『旧唐書』の用例を見ると、范という漢字の使われ方は決まっていて、大体いつも「范陽」という都市、もしくは「范陽節度使」という官職名としてなのである。

 范陽節度使といえばあの安禄山の官位なのだが、この安禄山も斎藤道三と同じく簒奪者で、しかも長男を廃して弟に後を継がせようとして、長男に暗殺された人物なのである。何か関係があるのだろうか。

 もう一つの可能性があることに気づいた。 「范可」とは「范曄」(ハンヨウ、後漢書の筆者)の誤字ではないか?というものである。曄という字は中国人でも中々見ない字であるらしく、「顧頡剛口述中国史学入門」の著者・何啓君は顧頡剛に「范曄の曄というのはどう読むのか」聞いたそうである。范曄を「ハンカ」と読む百姓読みは前に聞いたことがあるので、范曄→「ハンカ」→ 「范可」なのではないか?