正史三国志入門ー 「正史」三国志とは一体なんなのか?
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(敦煌出土本『正史三國志』 百度画像検索より引用)

<前書き>
 とある三国志サイトを見ていたら、およそ基礎知識が欠如したような文言がずらずらと並んでいた。天を仰いで長嘆息しつつ、もしかすると、以前あった三国志の良質なサイトが無料ホームページサービスの相次ぐ終了で消滅した影響かとも思えてきた。ウィキペディアも、あてにならないしねえ。

というわけで今から6年前、 旧『群龍天にあり』で書いた原稿を加筆修正して連載することにした。
 
三国志がゲームや映画、アニメのせいもあり、ちょっとしたブームとなっている。しかし、ヒットした映画「レッドクリフ」の元ネタは小説「三国志演義」であるし、歴史とは大幅にかけ離れた所があるのは仕方のないところだろう。というより「レッドクリフ」の舞台になっている赤壁の戦いというのは、歴史上どんなことがあったのか良く分からず、どこであったかも学界で議論が続いている謎の戦いなのである。

三国志は、実は未だに謎の多い話なのである。

では三国時代のリアルな歴史を(少なくともノンフィクションとして)知ろうとすればどうすれば言いのだろうか。
 実を言えば、後漢末期から三国時代にかけては、当時の石碑など(金石文)や、遺跡から発見された古文書も本当に数少ないがある。しかしそれらは断片的である。やはり、歴史書である、陳寿の『「正史」三国志』を読むしかないのである。

そして、陳寿の『「正史」三国志』は、とても面白い。私は『「正史」三国志』の現存最古の版本「百衲本(宋本)」を台湾で復刻したものをいつも読んでいるが、読み飽きるということがない。中国歴代正史の中でも、『史記』を除けばこれほど面白いものはなかなかないであろう。

 『「正史」三国志』の良さというのは、簡潔な文章の中で激しいアクションが展開されたり、古代の人々の喜怒哀楽が素直に表現されているところであろう。ハードボイルドの大家・北方謙三氏が 『「正史」三国志』に取材した小説を書いているのも、なるほどと思う。両者は一脈相通じるものがあるように思う。

 嘘だと思うなら、魏書「典韋伝」を見よ。八十人力の豪傑・典韋(てんい)が最強の男・呂布と戦うシーンである。これは三国志演義の文章ではない。裴松之の注でもない。陳寿が書いた 『「正史」三国志』の文章である。
時に西面、また急なり。
(典)韋進んでこれに当たる、賊(呂布軍)は弓弩を乱発し、矢が至ること雨のごとし。
韋、視ず。等人(部下の兵)を呼んでいう。「虜(てき)が十歩まで来たれば,乃ち言え!」等人いう、「十歩なり!」
(典韋)またいう、「五歩で乃ち言え
!」等人おそれ、疾く言う「虜(てき)至る」!典韋は手に十餘りの戟(手裏剣)を持ち,大いに呼びて起(はな)つ,当たらずというものなし。呂布の衆、退く。」(用字は分かりやすいように若干改めた)
簡潔な中に、激しい戦闘が描写されているのがお分かりいただけるだろうか。

現代の小説と比べて、登場人物は皆、生一本な人ばかりである。激しく怒り、激しく喜ぶ。あたかも『古事記』『日本書紀』の神々のようである。

 現代の安本美典氏(元産能大教授)などの歴史学研究では、そもそも『古事記』『日本書紀』の神々は 『「正史」三国志』とほぼ時代を等しくしているといい、 『「正史」三国志魏書巻30東夷伝・倭人の条』に登場する女王・卑弥呼は、すなわち天照大神である…というのだ。それもなんとなくうなづけるように思う。

この文章は、その「正史」三国志への誘いである。これを読んで一人でも 『「正史」三国志』の現代語訳に触れていただければ、筆者はうれしいのである。

はじめに、簡単に 『「正史」三国志』について。
正史三国志は、西暦297年ごろに書かれた中国の三国時代のことを書いた歴史書である。著者は陳寿(ちんじゅ。字は承祚<しょうそ>、233~297)。魏・呉・蜀三国の興亡を紀伝体で描いている。

他の中国の正史には、『漢書』や『五代史』のように、書か、史という字が付けられるのが普通であり、『三国志』のように志が付くのは異例。『三国志』の志は「記録」の意だという。中国文学者の井波律子氏は、
「陳寿がことさら「三国志」と題したのには、むろん理由がある。実は、『正史三国志』には、オーソドックスな歴史書に必ず添えられている、天文・地理・制度などの記述が欠けている。陳寿はこの点を配慮して、ひかえめに「記録」の意味をもつ「志」という表現を採用し、「三国の記録」すなわち「三国志」という題をつけたのである」
(井波律子『三国志演義・水滸伝 男たちの世界 世界の文学107』(朝日新聞社)
と、推測している。
(「書」とつく歴史書は儒教に於ける古代史の聖典『書經』を継承した歴史書だという意図で、「史」が付く歴史書は中国正史の筆頭にして最高傑作とされる『史記』を継ぐという意図だといわれる。陳寿は非常に控えめな人だったようだ)

以下に、正史三国志65巻がどういう構成になっているのかを超ダイジェストで紹介しておう。正史三国志ははっきりいって読みにくい。くどい公文書の引用は多いわ、裴松之が愚にも付かない議論をクドクド書いているわ、多分史記より読みにくいと思う。それを人物紹介一行と、内容をメチャクチャ荒く三行でまとめてしまったものである。

1,魏書
本紀の部ー超面白い曹操ちゃん列伝と退屈な皇帝の記録ー

歴代皇帝の事績を紹介する「本紀」である。曹操~5代目で晋に禅譲する曹奐たちの系譜であり、ストーリーの骨格と言ってもいい。
 『「正史」三国志』で、ぶっちゃけ面白いのは、古来から前半だと言われている。古今の歴史書をメッタ斬りにした唐の劉知幾も、「三國志で一番面白いのは曹操・曹丕・曹叡の前半部分ばかりだ(陳寿の魏書は、其の美は三祖に於いて窮まる)」といっているぐらいである。

実は吉川英治の小説『三国志』、北方謙三の『三国志』も前半部分だけでぶった切っているのである。(ちょうど曹叡が諸葛亮(孔明)と相前後して没するので、いわゆる孔明最期の段「秋風五丈原」が三国志小説の終わりになるのである)

中でも面白いのは本田済先生が「魏武本紀というよりは曹阿瞞列伝」
(皇帝陛下の伝記というより曹操ちゃん列伝)といった武帝紀。
 
1. 魏書一 武帝紀第一 - 曹操
曹操(そうそう)魏の初代皇帝、武帝。官渡の戦いに勝ち華北を統一。劉備・孫権の連合軍に赤壁の戦いで負け天下統一ならず。子の曹丕が魏を建国し、皇帝位を贈られた。

元不良でヤンチャしまくりの曹操が、改心して官僚になり、戦乱に乗じて挙兵する話(どこのヤンキー先生だろう)。
挙兵後もあっちで負けこっちで負けして苦労するが、天下分け目の官渡の戦いで勝利。
官渡の戦いはクライマックスなのでそれはもう情熱的に書いているんだが、
赤壁の戦いは、まあ負けたということで。軽く流されています。(だから後世の学者が四苦八苦しているのだよなぁ…)
 引用文もさすがに曹操の文章はずば抜けて上手である。昔、湯島聖堂に言ったら、中で先生が三国志講座をやっていて、曹操の「求賢の令」の名文句「ただ才を是れ挙げよ」というあたりを音頭朗々と朗詠していたが、あれは詩吟のような調子で聞くと実にしびれますね。畳み掛けてくるような名文である。
 
2. 魏書二 文帝紀第二 - 曹丕
曹丕(そうひ)。魏の二代目、文帝。善政をしたが若死にした。

親父に比べてくそまじめで堅実な二代目。政治家としての事跡は貧民救済など偉くまじめである。徳川秀忠のようだ。ただ、どうも戦には親父よりクッソ弱いが。阪神で言えば和田豊監督なみに弱いぞw 

裴松之は例によって週刊誌レベルの兄弟喧嘩ネタを延々と書いているが、 ワイドショーじゃないんだから自重したほうがいいんじゃないのか?だから「歴史書メッタ斬り!」の劉知幾にボロクソ書かれるんだぜ?
 
3. 魏書三 明帝紀第三 - 曹叡
曹叡(そうえい)。三代目、明帝。諸葛亮(孔明)と激戦の末勝利。その後浪費で国力を疲弊させた。

もうちょっと宮殿建てすぎ。本紀には書かれていないが、この宮殿建てまくりで魏は相当民衆に負担をかけたようだ。
能力的にはおとうちゃんの曹丕より、おじいちゃんの曹操よりも劣るだろう。なお、ロングヘアで超イケメンらしいが、顔だけじゃ食えんよなあ。このあたりになると公文書を延々と丸写ししているだけの記述が目立つ。要するに無能な皇帝だということでしょう。
この辺りで例の諸葛孔明も死んじゃうし、つまんなくなってくるんだよなあ。そりゃ吉川英治も北方謙三もさじを投げますわ。宮城谷昌光や内田重久はクドクド書いているが、登場人物も小粒感が…なんかこう、大リーグやプロ野球の試合というより、高校野球の弱小校のプレーを見ているようなガッカリ感が…
 
4. 魏書四 三少帝紀第四 - 曹芳・曹髦・曹奐

曹芳(そうほう)・曹髦(そうぼう)・曹奐(そうかん)。魏の皇帝だがいずれも実権はなく、重臣司馬一族のロボットだった。曹奐の時司馬炎に禅譲し、魏は滅んだ。

清の趙翼が「こんなひどい歴史の偽造があるだろうか!」と、史料批判書『廿二史箚記』で激怒した、完全な捏造部分である。具体的に言えば、司馬一族に全て退位もしくは暗殺されたのだが、其の事実が全て書かれない。

幸い裴松之が事実を拾い集めて注に残しているので、後世の我々は事実が分かるのである。三人続くが、
4代目の曹髦(そうぼう)が司馬炎に実権を握られていることにキレて宮殿から近衛兵若干名を率いて司馬一族の軍に突撃し、あっさり斬り死にしたことが唯一の特筆すべき記事。(ところが、陳寿は斬死の事実を書かず、病死のように装っている)
それにしても司馬炎のロボットという境遇にがまんならなかったのは分かるが、突撃はいけない。陳寿も評で「曹髦は勉強好きだったが、ついカッとなってキレてしまい、自滅してしまった。」とぼかしながらも斬り死にを匂わせているのは、流石に良心が咎めたのか。しかし、こんな「むしゃくしゃしてやった。誰でも良かった」みたいな人間が曹操の後継者というのもひどい話である。曹操がどんだけ我慢強かったか…