要約・正史三国志入門も本紀が終わり、列伝に突入する。

5. 魏書五 后妃伝第五 - 武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后

武宣卞皇后(ぶせんべんこうごう、曹操の皇后)・文昭甄皇后(ぶんしょうしんこうごう、曹丕の皇后)など。
列伝のド頭が女子なんですね。陳寿先生、序文で「易経に言う、男正位乎外,女正位乎内』。男女正なるは、天地の大義なり!」と大上段に出てフェミっぷりをアピールしております。史記だと「序章」扱いで伯夷伝なんですけどね。 

曹操の奥さん・武宣卞皇后伝がすごい。なお、歴史漫画「蒼天航路」では「卞玲瓏」という名だが、当時「二字の禁」というのがあったわけで、こんな名前はないw もちろん陳寿もそんなことは書いていない。

武宣卞皇后は、琅邪開陽の人,文帝の母也。本は倡家(しょうか)」 本は倡家というのは「枕営業もある芸能人出身」だという(異説あり。詳細は下記。)のだが、非常に頭がよくしっかりした人だったようで、旦那が斬られたという話があっても動じないあたり流石。(しかし、こういうことを見も蓋もなく平気で陳寿は書くね。尊敬していた司馬遷の「劉邦の父はオッサン、母はバアサン」という身も蓋もない書き方に倣ったのだろうか?)

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(中国大河ドラマ『曹操』より。仲間由紀恵似で超可愛い武宣卞皇后。画像はhttp://bbs.voc.com.cn/topic-4761672-1-1.htmlより)

なお、魏の皇帝たちが愛した女性はみんな下流出身だったことは明末清初の儒学者・王船山(ふなやまではなく、せんざんと読む。大物の儒学者でふなっしーの仲間ではないゾ)も
「曹操の愛人はみんな下流なっしー!!魏のプリンセスは代々、皆そうなっしー!!梨汁ブシャーしてビックリなっしー」と著書『読通鑑論』で驚いているぐらいである。

Funassyi

 (ふなっしー王船山のイメージ[だいぶ違うと思う])

少し専門的だが、この「倡家」という言葉の解釈は学界でも論争になっているのである。

盧弼『三国志集解』や矢田博士氏の論文『
「昔爲倡家女 今爲蕩子婦」考 -漢代の「倡家」の實體に即して-』(http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/40609)では、
倡家というのは当時貴族の家に出入りしていた芸能人のことで、時には枕営業でのし上がり王妃になるような人もあった」

とするが、入谷仙介『古詩選』(朝日新聞社・中国古典選)などの伝統的解釈では
「貧しい幼女や、誘拐されてきたお嬢様が無理やりセックスワーカーにさせられていて可哀想な身分だった」
とするのである。

ここでは盧・矢田両氏の新説のほうが無理がないと思うので、そう解釈した。
 
その他は、まあどっちでもいい。甄皇后に関しては裴松之は例によってゴシップを延々と書いているが、陳寿はどうでもいい扱いである。
裴松之は週刊誌向きだよな…いわゆるセンテンススプリング系の…
 
世家相当の列伝ー三国志の前半を彩る群雄たち

魏書六~八までは史記の世家に当たる群雄たちの列伝である。
ゲームの三国志でおなじみの人から、こんな人いたっけ?という人までさまざまである。
三国志最強男の呂布も結構負けているんだよね。張魯伝は道教史の一部として貴重である。
 
6. 魏書六 董二袁劉伝第六 - 董卓・李カク・郭汜・袁紹・袁術・劉表

董卓(とうたく、帝都洛陽に君臨し暴虐の限りを尽した後漢の宰相)・袁紹(えんしょう、河北省を支配した曹操のライバル)・袁術(えんじゅつ)・劉表(りゅうひょう)

日本で言えば戦国大名レベルの大きい群雄の列伝。陳寿は「董卓は有史以来の極悪人ですわ。袁術は悪政を敷いたどうしようもないクズ、袁紹・劉表は表向きは立派だが結局大したことない損五億並のアホ」とメチャクチャ書いている。

相変わらず攻めてますなあ… 
7. 魏書七 呂布臧洪伝第七 - 呂布・(陳登)・臧洪

呂布(りょふ)、騎馬隊を率い暴れまくった最強男。董卓の部下だが寝首を掻いた。曹操の空き城を乗っ取ったが、攻めつぶされ処刑された。

6巻の群雄に比べると小さい群雄の列伝。三国志最強男の呂布だが、陳寿は「強いがアホで信用できない。こんなのは歴史上潰れなかった試しがない」と手厳しい。陳登・臧洪(ぞうこう)は小さい城の城主で、群雄ともいえないのだが、「惜しい人たちだ」と陳寿は惜しんでいる。どうもこういう弱くても頑張ったというタイプに陳寿は弱いのか?

臧洪は籠城中に人を殺して食ったということで後世では大変評判が悪い。

と、ふなっしー先生も梨汁ブシャーして大いに怒っておられます。
 
8. 魏書八 二公孫陶四張伝第八 - 公孫サン・陶謙・張楊・公孫度・張燕・張繍・張魯

こうそんさん、とうけん、ちょうよう、こうそんど、ちょうえん、ちょうしゅう、ちょうろ
いわば「三流群雄伝」。陳寿は「公孫サン・陶謙・張楊・公孫度は悪の限りを尽くして滅亡した、小僧どもだ。元から話にならない連中だ。
張燕・張繍・張魯などは盗賊の親玉で幸い悪の道から立ち返った連中にすぎない」とムチャクチャ書いている。

陳寿は元々儒学者だから、道家の張魯はけなすのはある意味当然だが、張魯は盗賊の親玉で済まされるほどの小物とは違う。道教の創始者の一人である。

『中国歴史文化事典』(新潮社)では、「張天師」として祖父・張道陵などと一緒に立項している。

初期道教『五斗米道』の指導者。祖父張道陵は沛国豊(今の江蘇省豊県)の人、後漢の明帝のとき、巴郡江州の令に任命された。順帝の時、四川省鶴鳴山に入って道を学び、『道書』二十四巻を作り、その子張衡に伝え、張衡の子が張魯であり、代々「張天師」を称した。(要約)

この張道陵が書いた(張魯ら五斗米道が編んだという説もある)『老子』の有名な注釈書が『老子想爾注』(ろうしそうじちゅう)である。『老子想爾注』は敦煌から発見されたが、この思想の解釈をめぐっては中国哲学界隈で現在進行中で議論が進んでいる。『老子想爾注』でググるといろんな議論が出てくると思うよ。とにかく陳寿が小物扱いするほどの人物ではない。なお、この頃、陳寿のような正史を書いていた儒学者たちはかなり『老子』を小馬鹿にしていたらしく、逆に張魯たち道家は「儒学者の説く思想は嘘っぱちだ」と厳しく批判しており、思想対立がかなり濃厚にあったらしい。『老子想爾注』と『太平経(太平要術の書)』との思想的類似も指摘されている。もちろん「雲を呼び風を呼ぶ」ことが出来る様になるような本ではなく、『老子』の真面目な解釈書である。陳寿が「張魯は民衆を惑わしている」と書いたことから、『三国志演義』の妖術使い・張角像が生まれた可能性もあるかもしれない。