意外に薄弱な根拠

歴史学者の岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)がしばしば主張している「三国時代に漢民族は激減し、ほぼ絶滅した」という説は、トンデモ本で拡大解釈して使われる他、保守系の文化人の漢文解釈書でもしばしば出てくる説である。

しかし、この根拠となる部分を漢文史料原文に当たり直してみると、意外と怪しいのではないか?と思わざるをえない。

例えば、岡田氏は著書『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)で以下のように言う。
黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人(松平注:陳群・杜恕ら)が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
まず、杜恕は「いま大魏は十州の地を奄有しているが、喪乱の弊を承けて、その戸口を計れば、往昔の一州の民にも如かない」という話は、陳群伝にも同じ話が出てくるが、三国志の注で裴松之がツッコミを入れているので、そもそも白髪三千丈式のお話でしか無い。
<原文・原注>
況今喪亂之後,人民至少,比漢文、景之時,不過一大郡。(三国志・魏書・陳群伝)

臣松之案:漢書地理志云:元始二年,天下戶口最盛,汝南郡為大郡,有三十餘萬戶。則文、景之時不能如是多也。案晉太康三年地記,晉戶有三百七十七萬,吳、蜀戶不能居半。以此言之,魏雖始承喪亂,方晉亦當無乃大殊。長文之言,於是為過。

<意訳文>
陳群「いまは葬乱の後で、人民は至って少なく、漢の文帝・景帝の時に比べれば大郡一つ程度の人口しかいません」

臣、裴松之が考察します。この陳群の発言は言い過ぎです。
「漢書地理志」によりますと漢の武帝の最盛期の人口でも、一番大きな郡の世帯数は「30万」しかありません。文帝・景帝の時はこんなに多くなかったでしょう。晋の
太康三年の記録ですと、魏の本土には「377万世帯」がおり、呉・蜀の世帯数はそれに比べて半数以下だとあります。魏の初期は戦乱の後だったとはいえ、晋の太康三年の記録とそう大きく数字が違うことはありえません。陳群は大幅に数字を盛っているのでしょう。 
さらに、221年の「生き残りの中国人の中都の地への移住」について。これの典拠は正史三国志・魏書文帝紀の注に引用する「魏略」と思われる。
<原文> 
魏略曰:改長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界[炎β],為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。
<現代語訳>
「長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽の5つの県を改めて都とした。また、石の標識を立てて、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)をそれぞれ境界として、その内側を「中都」とし、天下の人々にそのなかに移住することを許したうえ、五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された」(守屋洋・訳。『正史三國志英傑伝 1 魏書』徳間書店より)
ぜんぜん違うじゃないか!!

なぜ、岡田氏は誤読してしまったのか。

ここが漢文の恐ろしいところである。漢字一字を飛ばしただけで意味が全く変わってしまうのだ。
岡田氏は「令天下聽內徙」(天下をして内に徙(うつ)るを聴かしむ=天下の人民が首都圏に移住するのを許可した徙は移とほぼ同じ)を誤読して、
令天下内徙」(天下をして内に徙す=天下の人民を中都(=中国)へ強制移住させ、他の土地はほとんど人がいなくなった)としてしまったのではないか。

そして、「中国人は激減して完全に絶滅した」という説を導き出してしまったのだと思う。(この中都地域の人々は後の永嘉の乱でほぼ死に絶えてしまったので)

岡田氏は別の著書『やはり奇妙な中国の常識』(ワック)でも、
魏は建国の翌年の221年、河南省の北部から山東省の西部、安徽省・江蘇省の北端にわたる東西に細長い地域を内地に指定して、周囲に石の境界標を立て、支配下の人民を強制的にその内側に移住させた。
 つまりここだけが中国だということで、その外側は屯田兵が基地に居るだけの空地になったのである。(同書26ページ) 
と解釈しているが、やはり誤読であろう。

 残念ながら岡田氏の読み方だとその後ろの「復五年,後又增其復。」(五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された)が全く意味不明になってしまう。強制移住なのになぜ減税の優遇措置までしているのか訳がわからない。

もっといえば、中都=中国という読み方も強引すぎると思う。司馬貞の史記索隠では「中都とは都内というようなものだ」と解釈しており、この魏略の記事でも、中都とは単に「首都圏」  と言いたいだけではないか。

更に、魏書文帝紀のこの続きの部分では、「中都」以外の地域でも内政を行ったり、イナゴの害の対策を行ったりしているのである。岡田氏の説では「屯田兵が基地に居るだけの空地」でなぜ内政を行うのであろうか?おそらく首都圏以外にも普通に人が住んでいたのであろうとしか考えられない。
三年(中略)秋七月,冀州(現在の河北省)大蝗,民飢,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。
十一月庚寅,以冀州飢,遣使者開倉廩振之。
六年春二月,遣使者循行許昌以東盡沛郡,問民所疾苦,貧者振貸之。
たぶん、以前の本で記憶か自分の古いノートを元に誤写したときの誤りがずっと訂正されていないものだと思うのだが、なにしろ国立大名誉教授がこういうことを書いてしまうと信じこむ人も出るのである。

たとえば、ある大学名誉教授(専門は英文)は、
「三国志の頃の中国人と、今の中国人はまるで違ってしまっている。おかしいと思っていたが岡田英弘氏の本を読んでなるほどと納得した。三国時代の中国人は絶滅してしまい今の中国人とは別の民族なのだ」
と漢文解釈書で平然と述べていた。お、おお…