ウィキペディアに荒らしユーザーが江戸時代の嘘くさい話を大量に投稿していることは既に述べた。
これもまた、その話である。
荒らしユーザーのシェーラ(変名でドルチェット)氏が投稿した「稲葉道重」と「津田信成」についての項目には以下の様な話が書いてある。

   慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、本戦では西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。そのため戦後は所領を安堵され、御牧藩主となる。ところが慶長12年(1607年)、美濃清水藩主の稲葉通重と共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋の女房をはじめとする美女78名に乱暴狼藉を働いた経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易された。一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%88%90

これは、「名刀幻想事典」というブログをパクって書いたのだが、実は「名刀幻想事典」も資料を誤読したものと思われる。(なお、ウィキペディアで個人のブログを元ネタに記事を書くこと事態が禁止されているのだが、荒らしユーザーはそういうことを平気で無視するのである)

津田信成は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原では東軍に属したことから本領安堵され、初代御牧藩主となっている。しかし慶長12年(1607年)に稲葉通重らと京都祇園で遊んでいた際に茶屋の女房など78人に乱暴狼藉を働いたかどにより御牧藩は改易された。

(名刀幻想事典)http://meitou.info/index.php/%E5%BE%A1%E7%89%A7%E5%8B%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
   
そもそもこの三牧藩主・津田信成という人は、「藩史事典」(秋田書店)が指摘するように、津田元勝と事績が混同されている人であり、女性を誘拐した罪でお家断絶に成ったのは
津田元勝」である。

津田元勝のお家断絶事件については「徳川実紀・台德院殿御實紀卷六」にある話である。

◎この月 伏見にて御家人稲葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衛門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商、後藤幷びに茶屋等が婦女。祇園・北野邊(あたり)を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆(しゅし)にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縛り付け刀をぬき。「若(も)し聲立ば、伐てすてん」とおびやかし。黄昏に皆逃げ去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ(訴え)出ければ。かく命ぜられしとぞ。(慶長見聞書。)
(通釈)慶長12年12月、伏見在住の幕臣、稲葉甲斐守通重、津田長門守元勝、天野周防守雄光、阿部右京なにがし。矢部善七なにがし。澤半左衛門なにがし。岡田久六なにがし。大島雲八なにがし。野間猪之助なにがし。浮田才壽なにがし等は、全てお家断絶となりました。これは、以下の様な事件を起こしたためです。

稲葉たちは、京都の富豪である後藤家と茶屋家の女子が、京都の祇園や北野の当たりで物見遊山をしていたのを誘拐し、むりやり出合茶屋に連れ込んで酒を飲ませ、後藤家・茶屋家のお付の人々を木に縛り付けて「もし声を出せば切り捨てるぞ」と脅かし、夕刻に逃走したものです。出合茶屋の人間が訴えてきたので、このような処分を下しました。(これは「慶長見聞書」にある話です)

この原史料と見比べると、ウィキの記述は乱暴であるしメチャクチャである。
・改易された人物名の違い
・誘拐されたのは「祇園のお茶屋の女房」ではなく「豪商・茶屋家の女性」(茶屋次郎四郎を知らないのだろうか?)
・「美女78人」という謎の改変(人数は誰が言い出したのか。おまけに「美女」ってなんですか。)

どうもこうもなく支離滅裂である。