八切止夫氏は異端の歴史作家と言われ、新左翼運動にかなりの影響力を持ったとされる。若いころの文章はともかく、晩年のその主張ははっきり言えば「電波」の一言に尽きる。江戸しぐさの江戸っ子大虐殺レベルの主張を「真の歴史」と吹聴し、それを信じこむひとが多いのは困ったことである。

 今更、随分前に亡くなられた方の説を批判するのも気が引けるが、こういう電波を信じこむ野党の政治家が出てきているのだから、批判せざるを得ない。

このような偽史については、既に原田実先生や佐々木俊尚氏の論考で批判されているが、まだまだ偽史を街頭演説した人間に23万票も入ってしまうのだから、地道に批判していくしかあるまい。

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

 http://www.rekishi.info/library/yagiri/より
「純正日本史案内」 

なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。
八切氏はこの「藤原鎌足中国人」説を長年主張され、信者も多く、「郭ムソウ」でググるとこの節の信奉者がバカンバカン出てきて頭が痛くなるが、なにか八切氏は根本的に誤解されているようである。そもそも「唐の大宝律令」なんぞというものはない。大宝律令は日本製である。

 
郭務悰(ムソウ)という人物も、八切氏が思っているほど大物ではないのである。大化の改新の後に来朝した唐の木っ端役人、田舎の副市長のお付きに過ぎない。大和朝廷もまともに扱っていない。
郭務悰 かく-むそう ?-? 唐(中国)の官吏。 白村江(はくそんこう)の戦いの戦後処理のため,唐の百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅう-じんがん)の命で天智(てんじ)天皇3年(664)来日。朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国,翌年唐使劉徳高とともに来日。さらに10年百済の難民二千余人をひきいて来日したが,翌年筑紫(つくし)で天智天皇の死を知らされ帰国した。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)ってそれ以前に日本に居たんだよなあ。なにしろこの郭ムソウさんが来たのは大化の改新の後なのである。郭ムソウさん、柱国という一見凄そうな肩書を持っているのだが、唐代の柱国というのは単なる勲章である。官位も従五品下・朝散大夫と低く、大和朝廷からも「なんだこの使い走り」だと思われていた人である。どう考えても藤原鎌足になれそうもない。

しかし八切さん、「武鑑」を読んでいた割に「朝散大夫」というのが大した官位でないことが分からないんですかね。日本の江戸時代の制度でも、朝散大夫というのは大名の最下級、従五位下の異名なのである。例えば浅野内匠頭も「朝散大夫」であった。

おまけに、郭ムソウさんは唐の正使・沂州(ぎしゅう)司馬の劉徳高(これがまた大した官位ではない。副市長程度の人である)の子分なのである。日本書紀では「劉徳高など」と、「ら様」扱いを受けてしまっている始末である。沂州というのも人口19万の田舎町で、水滸伝にモデルにされた人物が出てくる、王倫(おうりん)という小悪党の在所である。
沂州,中國古代設置的一個州,治所在今山東省臨沂市。北周改北徐州為沂州,因沂河而得名。治所在即丘縣(今山東省臨沂市東南)。唐朝將州治遷到臨沂縣。曾改名為琅邪郡。土貢:紫石、鍾乳。戸三萬三千五百一十。口十九萬五千七百三十七。北宋王倫在沂州起義。(https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B2%82%E5%B7%9E)

中臣鎌足はこの頃既に、内臣(後の内大臣…内閣総理大臣代理)なんだよね。

田舎の副市長の随員程度の郭ムソウさんが、今で言えばバリバリ働いている副総理と入れ替わりになってしまうようなものだ。ありえないことである。

藤原氏も何もあったものではない。そもそも中臣鎌足は「白村江の戦いで勝てなくて申し訳ありませんでした」と死ぬ間際に天智天皇にお詫びしたような人である。唐の人であろうはずがない。

現代中国語を駆使する唐の人!


八切氏はこうもいうのだが、どうも八切氏の頭のなかの中国は唐も満洲国もゴチャゴチャなようである。(八切氏は戦時中の満洲にいた)
唐風にすべてが変り、「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、 「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽 生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。…(中略)…「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」  などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
それ、満洲国の話ですよね?

その持ち歩いていた書きつけ、中国語早覚えの急就篇(きゅうしゅうへん…今で言えば「旅の指差し会話帳」のようなもの)じゃないですかそれ…

そもそも、唐代の人がなんで現代中国語でしゃべるんですか…
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモ ッグ公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知れぬ。
藤原氏の名乗りは中臣鎌足が住んでいた高市郡藤原からですよ。

しかし、都合のいい時だけ漢音で漢字を読むんですね八切さん。唐の人は現代中国語で話していたのではなかったのですか?!

それからスモッグ公害、唐でも無いと思いますよ…

出た!八切止夫十八番のコジツケ!
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。

なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。

「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人頭」というのもあって、「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
ここでいう、「といち」とは近世の俗語で、「上」の字を分割して「ト一」としたものだと辞書『大辞泉』にはある。
唐は関係ないと思う。
といち【ト一】

《「上」の字を分解して読んだもの。近世語》上等であること。特に、女性の器量が人並み以上であること。また、そのさま。
「これは―なお嬢様」〈伎・青砥稿〉(松平注:白波五人男のこと)(デジタル大辞泉より)

江戸しぐさレベルのヨタを平気で書いちゃうんだよな…八切氏はこの頃になるとほとんど調べず、記憶に頼って書いていたようである。そして「歴史の裏面を史料に頼らずに書く」と主張していた。昔かなり勉強されたのは分かるのだが、もう少し調べたほうが良かったのではないか。