・1590年、徳川家康がこれまでの東海甲信の領地から江戸へ転封された時、家臣たちは大騒ぎをしたという。「御家人等は御國換ありとの風說を聞て大に驚き騷し」とパニック状態になったと『徳川実紀』は記す。

無理もない。先祖代々の土地を急に奪われ、全く土地勘のない関東地方への移住を余儀なくされたのだから…江戸時代の藩の転封も大騒ぎになったという記録が多い。ましてや徳川家は大藩といっていい、今で言えば長野県・山梨県・静岡県の三県にまたがる大きな領地を持っていたのである。三県の県庁が全て移転するようなものだ。

  
家康だけが「まあお前たち、そんなにパニックになって心配しなくっても大丈夫だよ。私が旧領地を離れ、あの遠い奥州に移転しても、百万石あれば上方へ進撃することは簡単なことさ」と冷静に判断していた、と『徳川実紀』は記す。

「君聞召。汝等さのみ心を勞する事勿れ。我たとひ旧領をはなれ。奥の國にもせよ百万石の領地さへあらば。上方に切てのぼらん事容易なりと仰ありて。自若としてましましける」

東はまだまだ上方から見れば奥州と変わらない土地だったのであろうか。

・最近の研究では、家康は江戸に入った後奥州仕置でも活躍し、豊臣政権下でも前田利家と並ぶ「二大老」の地位にあり、関東と東北に支配を及ぼしていたという。 『徳川実紀』でも、九戸政実の乱を平定し、これまた転封された伊達政宗の為に岩出山城を整備し、

「この奥州はしょっちゅう一揆が起こっているね。伊達君は葛西・大崎の両郡(現宮城県)を統治するといいよ、この城は葛西・大崎の中心になるように堅固に築城しておいたからね」

と、政宗を手なづけていることが出ている。

政宗も感激して「ああ、本当に有難うございます。この御恩は忘れません」と言い、ここに仙台藩の基礎が築かれたのであった。

(「 君は岩手山に新城をきつがせられぬ。これは政宗がしる所しばしばさはがしければ。今度はその所を收公せられ。葛西大崎の地にうつさるべきをあらか じめはかりしり給へば。その時住せんがためかく堅固に築かしめ給ひしなり。政宗もかくと承り深く御惠のあつきをかしこみけるとぞ。」)

・家康が東国支配を強固にしていったロールモデルとしては、おそらく鎌倉幕府が念頭にあったのだろう。この頃から家康は鎌倉幕府の歴史を学び始めた。二木謙一氏によると、1596年(慶長元年)7月に、公家の山科言継が家康に「吾妻鏡」の講義を終えたと記しているそうだ。おそらく講義は前々から行われ、激務の合間を縫って行われていたのだろう。関東に基盤を置き、奥州を後背地として確保するのは鎌倉幕府そのものである。「
東國諸大名の惣大將」(『徳川実紀』)だった家康は、地道に東国支配を行っていった。

・矢田挿雲が収集している江戸の古伝説によれば、家康が江戸を漫遊してあちこちで古寺の住職と歓談したりして、愛嬌を振りまき人心収攬に務めたのもこの頃だという。

・さて、その間に豊臣政権は迷走を続けた。朝鮮出兵、混乱する統治。
秀吉が作った壮麗な聚楽第も、
「おしつけて、いえば言われる十楽(聚楽)の、都の内は一楽もなし」
と庶民から批判されるほどであったという。

・そして1600年、関ヶ原の合戦が起こるのである。色々な原因は伝えられているが、結局豊臣政権が朝鮮出兵と内政の失敗でほぼ自滅しており、そうなると東国で力を蓄えていた家康が権力を握るのは自明の理でしかなかったのではないか。豊臣政権にしてみれば、不気味な存在である家康を倒さない限り自分たちが危ういのである。

・1600年、会津の上杉景勝が軍事力を増強し始め、4月1日に家康はそれを弾劾した。上杉側がそれを無視したため、東国の支配権を豊臣政権から委ねられている家康は7月26日、伏見から江戸に帰国し、「 鎌倉右大將(源頼朝)佐竹追討の佳例」『徳川実紀』)に従い、9月1日に下野小山に布陣した。
既に石田三成を首班とする豊臣政権と家康との関係は極度に悪化しており、家康は帰国の最中でも諸国の大名に大量に書状を発給している。

・8月25日、豊臣政権は家康に突然「最後通牒」を突きつけた。世にいう「内府ちがいの条々」である。豊臣政権は家康を謀反と決めつけ、最終決戦を図った。徳川家の留守居役・鳥居元忠が籠城する伏見城を落とし、徳川家についた大和筒井藩を除封、丹後細川藩を攻撃する司令を矢継ぎ早に発する。

さて、ここで通説だと小山評定があり、家康が演説を行い、上杉征伐に従軍していた福島正則がそれに答えて猛然と立ち上がる…というお話があるのだが、この話は白峰旬氏は創作ではないかと疑っている。

関ヶ原合戦はドラマチックなお話が後世やたらに創作されているのである。小山評定の話などそもそもあったかどうか学会でしばらく前に議論があったくらいで、かなり怪しい。

『黒田家譜』ですらこの小山評定を極めてアッサリと「家康は黒田長政・福島正則・徳永法印寿昌と協議して、上杉攻めを中止して上方征伐を決定した。諸将もそれに従った」と書いているのである。だいたいドラマチックなお話は全て怪しいと思うべきだと私は思う。この三人と協議するのは後世の目から見ると違和感があるのだが、かえって当時のことを伝えているのかもしれない。福島は清洲藩主、徳永は美濃高須藩主(岐阜県海津市海津町高須)で、両方共、最前線の城主である。

『黒田家譜』は面白いことに「箱根を死守して上方から進撃してくる豊臣軍を迎え撃とう」という話も出たと記している。関ヶ原で最終決戦になったのは偶然の産物でしかなかった。井伊直政が出した案は、

・家康は駿府城に入る。
・秀忠が浜松城に入る。
・岡崎城は本多忠勝・井伊直政が入る。
・清州城に福島正則が入り、相互に連携して豊臣軍を迎撃する。
というものであった。(『黒田家譜』)

現代の「関ヶ原合戦」を知っている人からすれば違和感しか無い案だろうが、最終決戦地が関ヶ原という前提そのものが結果論でしか無いので、現実に徳川方の領地から考えていくとこういうおとなしい迎撃案になるのであろう。

福島正則が先陣になったのも、小説などでは「三成が憎いから…」などと書かれているのだが、単に清洲藩主で豊臣軍と一番早くぶつかりそうだっただけだと思われる。なにしろこの頃豊臣方は既に近江(滋賀県)の大津藩京極家と激突しており、大津藩が敗北した場合、徳川方の城は清洲まで存在しないのである。福島・黒田・井伊・本多らが清洲へ先発するというのも当初の構想であった。

私はこれまでずっと「豊臣軍」とか「豊臣方」と書いているが、これは白峰旬氏が収集した当時の古記録が全てそう書いているからである。

さて、豊臣方は大垣城・岐阜城を二大拠点として清洲の徳川軍とにらみあうこととなった。
家康は「風邪」と言い出して江戸城を出ず、清洲の諸将も動かなかったのである。

『徳川実紀』には、徳川譜代の武将たちがしきりに家康の出陣に反対し、石川家成が「西ふさがりという悪い卦が出ている」と言い出し、藤堂高虎が「清洲の諸将は下手をすると豊臣方に寝返るかもしれません、私が出陣をおすすめするまでは様子を見たほうがいいですよ」と言ったことが出ている。正直、福島正則は豊臣一族ということもあり家康は最後まで、「この男は寝返るのではないか」と危惧していたようだ。上方の徳川方の各藩から救援要請がかなり来ており、家康は流石に重い腰を上げざるを得なかった。

幸い、加藤嘉明が岐阜城攻撃をいい出したところ、福島正則がそれに同調し、岐阜城が簡単に落城した
ので、家康もようやく動いたのである。

大垣城の豊臣本隊と協調して徳川と戦うはずだった、岐阜城が落ちたのは豊臣方痛恨のミスであった。

岐阜藩主の織田秀信(信長の孫)はまだ若く、実戦経験がなく、なぜか野戦を選択してわずか二千人
『黒田家譜』)で出陣したのはいかにもまずかった。徳川方は福島正則隊1万6千、池田輝政隊1万8千に分かれて木曽川を渡り、岐阜藩兵に攻めかかったのだが、多勢に無勢で岐阜藩兵はみるみるうちに負けてしまったようである。経緯は『黒田家譜』『毛利家文書』によればこのようなものだったようだ。

まず川上から福島隊が突入していった。

岐阜藩も無策ではなく、福島隊が突入した木曽川の渡河点に竹ヶ鼻城という「とりで」をつくり、徳川方を妨害していたが、大軍を見た竹ヶ鼻城二の丸の守備隊長・毛利広盛(元々岐阜藩士ではなく、石田三成から来た援軍)が早々に降伏してしまい、わずか36人で本丸を守るしかなかったというから、哀れであった。

本丸の守将は豪傑・杉浦五左衛門重勝で、長い槍を片手でブンブン振り回しながら猛然と徳川方と戦った(
『毛利家文書』)が、午前九時に戦い始めて午後四時まで持ちこたえるのがやっとであった。さしもの剣豪も1万6千人対36人ではなんとも致し方なかったのであろう。この杉浦五左衛門は有名な豪傑・真柄十郎左衛門の甥だという。

竹ヶ鼻のとりでが落城し、豪傑・
杉浦五左衛門が戦死したのに焦ったのか、岐阜藩主の織田秀信は城を捨てて飛び出してしまう。とりでを攻撃した福島隊とは別に、川下から池田隊が攻め上ってきているのでそれを迎撃しようとしたらしい。

 岐阜藩兵はけなげに、弓矢や鉄砲を放ちそれなりに池田隊を妨害したものの、猛然と攻めかかってくる池田隊は渡河作戦を成功させてしまい、バタバタと岐阜藩兵を切り崩した。後方の本陣に居た藩主・織田秀信に、使番が悲痛な報告をもたらしたのはすでに敗色濃厚な頃であったと
『黒田家譜』は伝える。

「殿、敵が大勢、木曽川を渡って攻め込んでまいりましたぞ。我が軍勢はもはや敗走してございます。この上は岐阜城に立てこもり、大垣の石田様の援軍を待って敵を打ち負かしましょう」

 若き藩主織田秀信は歯噛みしてくやしがり、「もはや城を枕に討ち死にするまでじゃ!もはや必死の覚悟で戦うより致し方ない」と悲憤慷慨したが、野戦で敗走した岐阜藩兵は30%程度になってしまい、堅城・岐阜城もこれでは守りようがなかった。
『黒田家譜』には「なんとも危うい籠城だなあ…」と岐阜藩士たちが嘆きながら籠城の準備をしたことが載っている。イキった藩主と、やる気のない藩士たちの対比がなんとも言えないところだが、今の組織でもよくありそうな情景では有る。

 翌日未明から岐阜城籠城戦が始まった。大手(表門)は福島隊、搦め手(裏門)は池田隊。
大垣からの援軍は徳川軍と野戦を行っており城に到達できず、岐阜藩士たちは悲痛な覚悟で戦わざるを得なかった。
岐阜藩には更に不幸が重なった。大手門の矢倉の上で奮戦していた岐阜藩随一の勇士・木造左衛門長政(きづくり・さえもん・ながまさ)が鉄砲に当たり倒れたのである。これで大手門が破れてしまい、搦め手を破った池田隊と福島隊が本丸の真下まで攻め込んでくる始末になった。天守閣からそれを見た藩主・秀信はパニックになり、「余は腹を切る」と言い出したという。家老たち(
百々越前守綱家らか)がいさめたので正気を取り戻し、降伏したというがなんといっていさめたのであろうか。落城というのはなんとも言えず物悲しい。

秀信もバカ殿ではなかった。正気を取り戻した後、藩士たちの再就職の為に感状(戦功証明書)を一々書いて渡したというのである。「まだ20歳以下なのに、さすがに織田信長公のお孫さんだけのことはある」と人々が感心したらしい。あまりにも運命は彼にとって酷であった。彼はその翌年、高野山で死去したという。この悲劇のプリンスにとって岐阜落城は悪夢でしかなかったろう。

秀信は仏教を弾圧した信長の孫だったので高野山にもいられず、高野山の麓の村で過ごしたというから哀れである。山麓で過ごしているうちに村娘とのロマンスも若干はあったようで子どもが三人産まれたというが、恐らく平和な時代であればそれなりに名君として名を残したのではあるまいか。大軍を擁しながら最後まで城門すら出ようとしなかった豊臣秀頼よりはずっと優れた人だったと思われる。

話が岐阜藩に偏ってしまったが、結局、最近の研究では関ヶ原合戦よりも岐阜落城のインパクトを重視する傾向があり、この岐阜落城が事実上の天下分け目であったようなので詳述した。

岐阜落城は豊臣方にとっても徳川方にとっても衝撃であったようである。

まず、豊臣方は岐阜城を救えず、援軍に出た石田三成隊が黒田長政・藤堂高虎らの猛攻を受けて逆に敗走してしまう始末で、多数の死傷者を出して意気消沈してしまった。こうなると浮足立った中から裏切り者が出始めるのはいつものことである。小早川秀秋と吉川広家が徳川方に内通し、怪しげな動きをし始めた。

徳川家康にとっても、戦線が膠着状態に陥ることを見越していたのだが、まさか岐阜城があっけなく落城し、大軍のはずの石田三成が敗走したとは想定外の事態であったようだ。家康は江戸から慌てて美濃へ急行している。笠谷和比古氏の研究によれば、時代劇によくある「威風堂々と大軍を率いて進軍する家康」は嘘であり、家康の侍医・板坂卜斎の記録によれば旗印も別に、隊列も組まずに急に向かったようである。このままでは徳川の天下も何もなくなってしまうであろうから当然であろう。

家康が美濃赤坂に到着した時、後の江戸幕府老中・本多忠勝が「お人払いを…」と家康の輿に寄ってなにごとかささやいた。小早川秀秋の寝返り契約完了の報告であった。

「小早川秀秋が寝返ったぞ!合戦は勝ったぞ!」

家康が叫ぶと徳川方は一斉に歓喜したと『黒田家譜』は伝える。

逆に、徳川方の田中吉政が豊臣方に寝返るという誤報が石田三成に届いており、夜襲を主張する島津義弘との間に議論があったらしい。

「家康めが到着したそうでごわす。ここは夜討ちしもっそ」
「いやいや島津老、そこは不要ですよ。徳川方の田中吉政が我が方に内通しておりましてねえ、合戦は当方の必勝ですから」
「じゃっどん、いくさっちゅうもんはそんなもんではなか。そういう返り忠っちゅうもんは現場の動きでどうなるか分かりもはんど。徳川方はいま疲れて寝ておるじゃろが、そこを叩かんでどうする」
「いやしかしですねえ、我軍のほうが多いんですよ」

石田三成は最後まで判断ミスを続けていたようである。しかもその後、大垣籠城はまずいと言い出し、雨が降っている夜中に関ヶ原へ移動してしまったというからこの人は何を考えていたのであろうか。
「雨がやんでいないのに、家康がそんなに怖いのか?せめて雨がやんでから動けばいいのに…」と豊臣方の兵士たちはウワサをこそこそとし始めていた。

関ヶ原の戦いはあっけなく終わったようである。後世の軍記物には豊臣方、石田三成たちの勇戦が物語られているが、どうも創作らしい。『当代記』にはこうある。

「関ヶ原で石田三成たちが布陣している所に、小早川秀秋が寝返って攻撃し、石田は敗走し、数百人が討ち死にした」

たったこれだけである。世にいう関が原の戦いは想像以上にあっけなく済んでしまったようだ。
『当代記』でも『黒田家譜』でも岐阜落城の話のほうが分量が多いのである。