群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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2013年08月

書評『江戸300藩 バカ殿と名君』




徳島文理大教授で、歴史作家の八幡和郎氏によるちょっと変わった江戸300藩史である。

実は、この本、旧幕臣の戸川残花の『三百諸侯』や、幕府隠密の報告書『土芥寇讎記』(どかいこうしゅうき)などの野史をかなり参照して書かれているようで、幕府の正史『寛政重修諸家譜』などを元とした中嶋繁雄『大名の日本地図』(文春新書)などとは全く書き方が違う。

中嶋繁雄氏は出来るだけ公式史料を元に書こうとしているが、八幡和郎氏は歴史の裏を読もうとする。そして戸川や『土芥寇讎記』などの、非公式史料を結構引用し、「名君と言われている人でも本当に名君なのか?」「バカ殿は本当に馬鹿なのか?」を検証しようとする。

例えば、「保科正之は中村彰彦がしきりに名君だと賞賛しているが実態は違うだろ?お手盛りとバラマキ以外の功績は果たしてあるのか?」と追及したり、「徳川頼房はちょっと精神的にアレなんじゃないの?」とつついたり、相当辛辣な評価が多い。

この本は改訂されて文庫になっているが、新書版のほうが好みであった。終わり方が歌舞伎「将軍江戸を去る」を引用していて粋なので、こっちのほうが私の好みである。

軽い本だと思ったが結構ヘビーでした。

「江戸しぐさ」側が抹殺した江戸町人の史料

こんなにある!「江戸しぐさ」側がひた隠しに隠している江戸町人の史料群
江戸しぐさ側では、江戸町人の史料を出来るだけ「なかったこと」にしたいようだ。

ところが、江戸町人側の史料は多数残っており、その中には江戸しぐさに都合が悪い文書も相当あるのである。

武陽隠士『世事見聞録』岩波文庫など
本名不明の「名目金の取り立てや公事訴訟の相談」をしていた浪人が書いた江戸の中流・下流の風俗随筆。
江戸しぐさが口を極めて礼賛する江戸の大商人を「強欲で極悪非道な連中」「ウソとおべんちゃらで世をわたっている」と痛烈に批判し、賄賂や談合の内幕を暴露している。その口調はアウトローの人だけに過激を極めており、「農民や職人は僅かな収入を額に汗して稼いでいるのに、大商人共はすさまじいぜいたくをしている」と述べている。

あれ?江戸しぐさでは、「お心肥やし」をして、常にみんなのことを考えているはずの人格者だったはずだよね?

篠田鉱造『幕末百話』『明治百話』(上下)岩波文庫など
明治5年生の報知新聞の記者が、幕末に生きていた人に聞き書きを大量にとったもの。
当時の世相が手に取るように分かる。「明治時代に入っても時計が高価な上に粗悪で、時間は当てにならなかった」など、江戸しぐさに都合が悪い記述もある。

「時泥棒は十両の罪」じゃなかったの?できなさそうだよね?

東京日日新聞社社会部編『戊辰物語』岩波文庫など
現在の毎日新聞で取った連載の「江戸っ子聞き書き」。この資料の存在そのものが「江戸しぐさ」の伝承「明治維新の時に政府から200年は江戸の江の字もまかりならんといわれた」という話を否定している。東京日日新聞社は政府系なのだった。記者の中心だったのは新撰組の基礎資料を整理したので有名な子母澤寛。彰義隊の「薩長狩り」について書かれており、江戸しぐさに都合が悪い。

「江戸っ子狩り」のとき、江戸町人は無抵抗だったんじゃないの?あと、維新政府の「殿様」である「土佐のご隠居」山内容堂とか、「屋台の立ち食い寿司屋で喧嘩していた黒田清隆」とか、明治政府の人々とも江戸っ子は仲良くしているみたいだね?

斎藤月岑『武江年表』ちくま文庫、東洋文庫など
江戸の大商人たちが書き継いだ町方の年表である。江戸っ子狩りがまったくの虚構であることが明治初年の記述を見れば火を見るよりも明らか。この資料の存在そのものが「江戸しぐさ」の伝承「大商人たちは文書を残さなかった」という話を否定している。

高村光雲『幕末維新懐古談』青空文庫、岩波文庫など
江戸開城当時19歳の職人だった高村光雲が後年思い起こして息子の高村光太郎に語ったものだが、「上野戦争の時、近所からいじめられていた半さん一家は戦争のことを近所から知らされず、自分から聞いて慌てて逃げた」だの「芸事を武家出の奥さんに習いにいったが、弟子のしぐさがあまりにもヘンテコだったのでバカバカしくなりいかなくなった」などの記述がある。

「江戸しぐさを実践すればいじめはなくなる」んじゃなかったっけ?

江戸しぐさを壊滅させた「江戸っ子狩り」はあったのか?

注)この記事は2013年8月に書かれたものです。この記事などを発端として「江戸しぐさ」批判がネット上で巻き起こりました。

江戸で一世を風靡していた(はず)の「江戸しぐさ」が消滅した理由として、江戸しぐさ関係者が多く言及するのは明治維新のときの弾圧、「江戸っ子狩り」である。江戸しぐさを伝える江戸講という組織が壊滅したばかりか、凄惨な弾圧が行われ多数の死者が出たというのである。そんなことはもちろん、歴史書に存在しないのだが、「江戸しぐさ」側ではそのように主張しているのだ。


先週出た漫画雑誌をパラパラめくっていると、みやわき心太郎『江戸しぐさ残すべし』という全40ページの漫画が載っていて、その作品によると明治維新の頃「江戸っ子狩り」による入牢、強制移住、虐殺などの大弾圧が行われたのだそうです。 (Pravdaの日記: 「江戸っ子狩り」はあったか?より)


特定非営利活動法人江戸しぐさ理事長である越川禮子氏は、著書で以下のように述べている。

第七章 抹殺された「江戸しぐさ」
「江戸しぐさ」の江戸は官軍によって葬り去られた、いってみれば江戸の陰の歴史だ。

旧・幕府側である町方たちは、江戸の町が官軍に占拠されたとき「二世紀半以上の繁栄と安泰を保証してくださった公方さま(将軍)に申しわけない」と店をしもうた屋(雨戸を締め切った家という意味)にしてしまったようだ。町屋ではすべて暖簾を下ろし、入り口はトッピンシャン(戸を締める音)と閉ざした。この時、重要な家訓、記録などを燃やし、その火が江戸の空を焦がしたという。

吹き荒れた江戸っ子狩り
 明治政府は江戸のカラーを取り去ることに全力を注いだ。そのため、江戸の町方や町衆の多くは、親類や知人を頼って江戸を離れ、地方に身をひそめた。世にこれを「隠れ江戸っ子」という。今なら江戸難民だ。勝海舟(一八二三~一八九九年)はこのとき、講のネットワークにおふれを出し、船を使い、ピストン輸送で両国から、武蔵、上総などに何万という人々を逃したそうだ。
 江戸の町は猫一匹いなくなるという情況で、小僧がたった一人、店の留守番をしていたそうだ。

(中略)
江戸っ子を一部の官軍は目の色を変えて追い回した。「江戸っ子狩り」は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は「江戸しぐさ」。ことに女、子どもが狙われた。私達の目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデットニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが……。遠く逃れてきた江戸っ子をかばい、自分自身も官軍に痛めつけられた函館の人々の子孫たちは、今だにそのときの残忍ぶりを語り続けていると聞いたこともある。

多くの江戸っ子たちは、「江戸っ子狩り」の嵐が吹きすぎるまで、近くは神奈川、埼玉あたりに逃れ、世の中のようすをうかがいながらお互いの親睦を図っていた。

都内で「江戸しぐさ」が見られず、東京近郊や地方で脈々と受け継がれていたりする場面に、以前は遭遇することがあったが、それは逃れた江戸っ子たちが伝承していったからだ。

昭和一〇年ごろまでは、たとえば学芸会などで、「まあ、よいしぐさをなさって、あの先生は、きっと江戸ゆかりの方でしょうね」などと話し合っているのをよく耳にしたという。

(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』講談社プラスアルファ新書、2001、P156~P158)



越川女史自身、江戸しぐさ抹殺のための「江戸っ子大弾圧」はソンミ村虐殺、ウンデッド・ニー虐殺に匹敵したと言っておられますからね。その表現はみやわき心太郎先生の江戸しぐさ劇画でも踏襲されています(当然、芝三光さん段階ではそのような話はない)ツイッターでの原田実氏の発言


というのだが、果たしてそんなこと出来たのか?というのを考察してみたい。

例えば池田整治氏はhttp://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.aspで
以下のように言う。


心豊かに何世代も積み重ねられて育まれた50万の市民が暮らす江戸は、まさに人間性豊かで、心温まるパラダイス社会だったに違いありません。
ちなみに江戸100万人の残り50万のほとんどは、参勤交代でやってくるお登りの地方侍たちです。歴史的に文書で残っているのは、この武士たちの、いわゆる公的な書物であり、市民の文化は文書として残されなかったのです。

 それを唯一、絵で見せて残しているのが浮世絵と言えます。ところが明治政府は、この江戸を否定して成り立っているのですから、なんと江戸仕草そのものさえも禁止してきたのです。(中略)

西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。

実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。


というのだが、実に恐れ入った話である。それにしても、文書として残されなかったものをどうやって越川氏や池田氏は知ったのだろうか?このような大掛かりな話を口伝えのみで伝えるというのも妙な話だ。それ以外にも謎の箇所が多すぎるように思う。

1)新政府軍に「江戸っ子狩り」なんかしている余裕はあるのか?
結論。ムリ。江戸っ子に逆に狩られている状態。

江戸開城前後の年表を確かめてみよう。(以下の日付はいずれも太陽暦)
1868年5月3日 江戸開城。徳川慶喜は水戸へ
同月 奥羽越列藩同盟結成
1868年5月24日 旧幕府軍の一部と新政府軍が市川・鎌ヶ谷・船橋周辺で衝突。
1868年5月15日 旧幕府軍の彰義隊と新政府軍が上野で戦う(上野戦争)
1868年6月21日 越後長岡藩など5藩、新政府軍と断交、北越戦争開始
1868年8月28日 奥羽越列藩同盟の出羽庄内藩、山形・秋田方面の新政府軍と戦い、連戦連勝
1868年11月6日 会津藩降伏

…こんな具合で、旧幕府軍及び奥羽同盟軍が江戸開城直後は盛んに攻勢を東北地方でかけている状況だったのだ。そんな状況で、江戸に江戸っ子狩りなど出来る余計な兵士なんかいなかったと思いますよ?なにしろ、
北越戦争では一旦落とした城を奪還され、現在の山形県や秋田県は奥羽同盟軍の猛攻を受けていたのである。

しかも、奥羽同盟軍のうち、長岡・庄内などの各藩は洋式の最新鋭の軍団を持っており、新政府軍はしばしば劣勢であった。江戸っ子の中でイキのいいばくち打ちや町火消し等は、洋式装備を付け、大鳥圭介率いる伝習隊に入って奥羽同盟の精鋭部隊になったものも多くいるのである。伝習隊は会津戦争の後も箱館戦争まで戦い抜いているのだ。江戸しぐさ側が言う、「入牢・強制移住・虐殺」なんかが出来たのか?

更に、江戸開城当時の江戸っ子たちに子母澤寛らが聞き書きをとった『戊辰物語』(岩波文庫)によれば、しばしば官軍の兵士が江戸市中で彰義隊や江戸町人に襲われているのである。彰義隊には新門辰五郎のを組も協力しており、江戸町民は「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」ともてはやしたのは有名な話のはずなんだがなあ…

・吉原帰りの佐賀藩士3名が死体になって転がっていた
・薩摩藩士4名が江戸を歩いている時に彰義隊に襲われ、全員殺害された
・町人が官軍兵士の錦布切れを50枚も奪い取り、ついに捕まって斬られた

逆に官軍側も番太郎(辻番)を斬るなど、逆襲をしていたようだが、それにしても「江戸しぐさ」関係者がいう無力な江戸っ子像とは間逆である。

余談ながら、「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」という話は、先だって亡くなった落語の立川談志師匠が『「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」なんてのをね、学校で教えないからいけないよ。』と落語の枕に振って歴史教育の貧困さを嘆いていたのだが、談志師匠没していくらもしない内に、「江戸っ子狩り」などという珍説がまかり通るようになってしまったのである。泉下の師匠もさぞ呆れていると思われる。

あまりにも「江戸しぐさ」の主張者たちは江戸っ子をなめすぎているように思われる。火事とけんかは江戸の華ですよ?

2)理屈として変だろ?
・そもそも論として、江戸の東側って森林あったっけ?川じゃないの
・そもそも江戸しぐさの体現者をどう判断しているのか?
・番頭(もしくは小僧)が何で無事なんだよ?
・発言ごとに内容がずれている理由はなんなんだろう?「入牢・強制移住・虐殺」と、「老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていった」とでは開きがあり過ぎないか?
・維新政府側に反対する側の史料なんて幾らでも公刊されているだろ?
・江戸町人が書いた史料も結構あるよね?江戸っ子狩りの形跡すらないんだけど?

2の件のうち、「川の話」はツイッター上でののまる氏にご教示を受けた。謹んで御礼申し上げる。
確かに江戸の東側は川ばっかりで、逃げにくいよなあ・・・

 維新政府側に反対する側の史料としては、すでに明治44年に『会津守護職始末』が会津の山川浩・健次郎の両名の作で出ており、内藤湖南が「維新史の史料について」で触れている。江戸しぐさ側が言うような江戸っ子狩りがあれば、それに類する史料があってしかるべきだと思うが、何も出してこないのは不自然である。

 江戸町人が書いた史料としては、『藤岡屋日記』『武江年表』(ぶこうねんぴょう)などがある。
情報屋をやっていた本屋の藤岡屋由蔵の『藤岡屋日記』は大部なので、とりあえずおく。

そのうち、江戸の町名主だった斎藤月岑(さいとう・げっしん)が明治15年(1882年)に出した
『武江年表』は、江戸市中の細々とした出来事まで細大漏らさず書いたものなのだが、それらしき描写がないどころか、上野戦争の直後でも隅田川花火大会を行い「絃歌喧しく、水陸の賑い大方ならず」とある始末である。さすがに歌舞伎見物の人は少なかったが、堀之内の厄除け祖師のご開帳などは随分賑わったし、明治天皇が江戸に入られた、いわゆる「事実上の江戸遷都」の時には、江戸の町民に酒とスルメが下賜され、かなり派手に町内でもお祭り騒ぎをしたようだ。ちなみに、江戸っ子狩りを匂わせるような描写すらない。江戸市中の見回りは諸藩が行っていたようだ。江戸っ子のネットワークを恐れていたんじゃないのか、明治政府?わざわざ酒まで配ってますよ?

もっというなら、町名主が記録を取っていたことを知らないようじゃ、江戸しぐさの連中は江戸学なんかを名乗る資格はなさそうだ。『武江年表』なんか町名主斎藤家三代に加え、歌舞伎通の松屋七兵衛こと関根只誠や、町年寄喜多村家の弟・喜多村信節など、町人ばかりで書き継いだ基礎資料ですよ?というより、江戸講はなんで町名主や町年寄を無視しているんだ?江戸幕府が定めた江戸の商人の筆頭は町年寄三家ですよ?

江戸しぐさ側でも


越川禮子さんによると、芝三光さんは「江戸に関する文献で信用できるのは明治10年からせいぜい20年までに出たもの」が口癖だった。(http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/10/)


というのだから、明治十五年刊行の町人の記録『武江年表』を否定するのはまず出来なさそうである。

江戸しぐさを崇める人々

「江戸しぐさ」でググってみると、例のNPO法人「江戸しぐさ」以外にも、江戸しぐさを崇拝する人々が次々に出てきて、寒心に堪えない。その件数たるや約466,000件。
無論その中には杉岡幸徳氏や赤木智弘氏のような、江戸しぐさに疑念を呈している有識者もいるが、
大半は下記のような無批判な礼賛者、崇拝者である。江戸しぐさを使って過去の日本を礼賛するというのは馬鹿みたいだから止めたほうがイイヨ!!江戸時代がいけないとはいわない、上杉鷹山公も小栗忠順公も偉い人である、庶民も中にはおかしいのもいたが大半は穏やかに過ごしていた、根岸肥前の『耳袋』や江戸古典落語の豊穣な世界を見てもわかることだ、で、なんで根拠不明な江戸しぐさなどを元に江戸を礼賛せねばならぬのか?

ねずさんのひとりごと 昔も今もすごいぞ日本人!

有名?なネット右翼系ブログだが、江戸しぐさを全面肯定。語るに落ちた感じである。江戸しぐさの祖・芝三光こ
と小林和雄(和男とも)は「DHQの検閲」関係の仕事をしていたという話をNPO法人江戸しぐさでは述べている。


GHQに勤務
戦後は、英文タイピストだった母親の知人、日系二世の情報将校のコネで、GHQ(連合国軍総司令部)に、しばらく勤務、情報関係のスタッフとして働いた。(中略)当時、GHQ の情報機関の主な仕事は検閲だった。日本語の分かる日系二世のトップの下に、日本人スタッフがついた。その数、6,168人(1947年3月、うち日本人は5,076人)。報酬は皮肉なことに日本の国家予算から支払われた。
言論の自由とは名ばかり。占領政策に対する批判をチェックするもので、マッカーサーGHQ最高司令官の占領政策を影で支えた。個人の手紙はむろん、新聞、雑誌、ラジオなどのマスコミもすべて検閲を受け、統制された。
したがって、この部署で働いた人々は世間をはばかって、自分が働いていたことを隠している人が多い。
http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/02/


DHQの検閲官を崇拝するネット右翼がいるとは思わなかった。ネット右翼ニ告グ。今カラデモ遲クナイカラ江戸シグサ崇拝ヲ止メヨ。オ前達ノ父母兄弟ハ青史ヲ誤ル国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ。そうしたら今迄の罪も許されるのである。速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。
(元ネタは例のアレ)

これも保守系とおもわれる「野本松下村塾」http://www1.ocn.ne.jp/~cdl65021/s1-edosigusa.htmもひどい。今カラデモ遲クナイカラ(ry

江戸しぐさ」に学ぶマナー
小学校道徳高学年対象
http://homepage1.nifty.com/TOSS-TSUKUDA/edosigusa1.htm

水からの伝言を道徳教育に使い、酷評されたあのTOSSである。江戸しぐさもやらかしていた。今カラデモ遲クナイカラ(ry

メッケルが関ヶ原で西軍が勝つといった話の出典

明治時代に、ドイツ参謀本部のメッケル氏が日本に来た時、関ヶ原の布陣図をみて「西軍の勝ちではないのか?」といったという話がある。最近、ネット上で「この話は創作ではないか?」という話が出ているが、別の話を見つけたので、メモとして書いておく。

メッケルが関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝ち」といったのは創作の疑いがあるという話と当時の混乱した状況

1987年発行の歴史雑誌『歴史群像シリーズ4 関ヶ原の戦い 全国版』の「第六章 対談・関ヶ原」で、二木謙一氏(國學院大教授)が以下のように述べている。(134ページ)

明治十八年(1885)、陸軍大学校の教官として来日した、ドイツのクレメンス・メッケル少佐が、関ヶ原の布陣を見て、即座に「西軍の勝ち」といったぐらいですから


これを見て私はわからなくなった。二木先生は戦国時代の古文書研究や有職故実では相当実績のある方である。この対談でも古文書研究を元にした手堅い論を展開している。なにか、海音寺潮五郎の武将列伝を遡る出典がありそうな気もするが。

なお、メッケルの話が創作だと言い出したのも、実は歴史雑誌『歴史群像』らしい。

メッケルが関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝ち」といったのは創作の疑いがあるという話と当時の混乱した状況
歴史群像105号の、『布陣図が語る西軍敗北の道筋』(河合秀郎)ですね。あの記事では「何者かの創作」だったので、あの後で司馬遼太郎先生が原因だと分析された方がおられたのかしらと


どっちなんだ。
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