群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

2013年10月

【ネタ】武蔵、古田織部に斬られる

略)古田織部正、見合い、六七人にてドッと切り込み、割りたて、斬り伏せ、
突き倒し、かけ廻り、思い思いの功名あり。
略)戸田武蔵に渡り合い、遂に武蔵を斬り伏せ、首を取りたもう。
古田織部正、働き功名比類なし。
(太田牛一『慶長記』)

その無造作に、戸田武蔵が、はっと詰足を止めた時、古田織部の姿を見失いかけた。
 織部の巨大茶杓が、ぶんと上がったのである。六尺ぢかい織部の体が、四尺ぐらいに縮ちぢまって見えた。
足が地を離れると、その姿は、宙のものだった。
「――あッつ」
 武蔵は、頭上の長剣で、大きく宙を斬った。
 その切っ先から、敵の織部が額を締めていた柿色の手拭が、二つに断きれて、ぱらっと飛んだ。
 武蔵の眼に。
 その柿色の鉢巻は、織部の首かと見えて飛んで行った。血とも見えて、
さッと、自分の刀の先から刎ね飛んだのであった。
 ニコ、と。
 武蔵の眼は、楽しんだかも知れなかった。しかし、その瞬間に、武蔵の頭蓋は、
巨大茶杓の下に、小砂利のように砕けていた。

「――ア。アッ」
「武蔵どのが、茶坊主に」
が――おおいようもない敗色と、滅失の惨気が、武蔵の勝ちを信じていた人々のうえを包んだ。
「……?」
 しかもなお、未練や煩悩は、そこまでの現実を見ても、自分らの眼のあやまりではないか――と疑うように、
生つばをのんで、しばしは放心していた。

あの武芸の達人、戸田武蔵が、茶坊主の古田織部に斬られるのか。
バガボンドが、へうげものに負ける。こんなことがあるだろうか。


「ゲヒヒヒヒ。生涯のうち、二度と、こういう敵と会えるかどうか。
しかし、それがしの巨大茶杓も良いものでござるよ、ゲヒヒヒヒ」
時は経ても、感情の波長はつぎつぎにうねってゆく。織部が生きている間は、なお快よしとしない人々が、
その折の彼の行動を批判して、すぐこういった。
「あの折は、帰りの逃げ途も怖いし、織部にせよ、だいぶ狼狽しておったさ。
何となれば、武蔵にとどめを刺すのを忘れて行ったのを見てもわかるではないか」――と。
 波騒は世の常である。
 波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る。けれど、誰か知ろう、百尺下の水の心を。
水のふかさを。
(善川エイジ『戸田武蔵』)
 ――慶長五年九月、美濃の国関ヶ原。「謀才俊雄の英士」武芸者戸田武蔵重政、茶人古田織部に討たれる。

…元ネタ
徳富蘇峰『近世日本国民史』http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223797
吉川英治『宮本武蔵 円明の巻』http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52402_49793.html

※これはネタ記事です。戸田武蔵を実際に打ちとったのは織田河内守長孝であり、古田織部ではありません。史料によれば、
古田織部は戸田武蔵の陣所に織田らと斬り込んで手柄を上げたようですが、誰を倒したのかまでは
太田牛一は書いていません。すなわち冒頭に引用した『慶長記』の略の部分に「織田河内守が戸田武蔵を打ちとった」とあります。ただ、古田織部が太田牛一が称賛するような猛将であった面も
あったのかもしれません。

江戸しぐさによると、桶狭間の戦いは秀吉の謀略、太田道灌は「大田同感」だそうです

江戸しぐさ公式サイトに、シリーズ「江戸しぐさの誕生とその系譜」(全30話)という連載コラムが出ている。
http://www.edoshigusa.org/about/
定款の上に出しているところから見ても、署名が副理事長の桐山勝氏(故人)名義だという所を見ても、「江戸しぐさ」の重要文書であることはわかる。ところが、これがあ然とするような誤りだらけなのだ。
既に指摘したように、東海林太郎(秋田市出身)を江戸しぐさ伝承者としたり、いささか香ばしい文書ではあるのだが、細かく見ていくと恐ろしい。

「桶狭間の戦いは秀吉の謀略!」とか書いてあるんだけど、
http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/05/
http://megalodon.jp/2013-1014-0955-22/www.edoshigusa.org/about/genealogy1/05/(ウェブ魚拓)

戦国武将たちはまず戦う集団を組織した。信長はその典型で「桶狭間の戦い」では情報戦に力を入れ、今川義元の本陣深く入り込み、勝利を挙げた。その背景には秀吉が仕組んだ謀略があった事が次第にわかってきている。

おいちょっと待て。それ、史料に何も書いてないから。秀吉の自筆文書は桶狭間の5年後まで確認できないから。
その背景には秀吉が仕組んだ謀略があった事が次第にわかってきている。」って、信長公記はおろか、武功夜話にも太閤記にも桶狭間で秀吉が何やったか書いてないから。これにかぎらず、江戸しぐさ関係者は小説に影響されすぎ。公式サイトに史料からの引用が殆ど無く、時代小説の引用が多いってのもなあ…歴史関係の専門家がいかに関わっていなかったかがよく分かる。

http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/
http://megalodon.jp/2013-1014-2041-53/www.edoshigusa.org/about/genealogy1/08/(ウェブ魚拓)

入府当時、一帯は芦が茂る湿地帯だったとされる。しかし、大田同感が江戸城を築いた1457(長禄元)年ころから平河口という物流の拠点を持つ、水陸交通の幼少だったという。

江戸城築城者の名前を間違っているような人に江戸を語ってもらいたくないなあ。『江戸名所図会』でも、『江戸から東京へ』でも、江戸っ子の元祖として太田道灌に敬意を評して巻頭に持ってきているんだがなあ…大田同感はないだろ…
http://www.edoshigusa.org/about/genealogy3/25/
http://megalodon.jp/2013-1014-2043-26/www.edoshigusa.org/about/genealogy3/25/(ウェブ魚拓)

利に関しては忌むべきものとの考えが強く、経済に無頓着になりがちだったようだ。『江戸の遺伝子』(PHP研究所)の著者で、世が世であれば18代将軍になっている徳川恒考さんが07年秋、日本記者クラブでの講演で述懐していた。


正しくは徳川恒孝。まあ、この程度の誤字は仕方がない…いや、徳川家当主で元・日本郵船副社長の名前を公式文書で間違えて、長期にわたって直さないというのはさすがにどうか。この文書、第30話の「NPO法人江戸しぐさの活動も始まった。歴史的、あるいは学問的な堀りさげをする一方、人間関係や躾・子育て、人材開発・教育、起業、マーケティング、あるいはマネジメントの視点から考えた、さまざまなプログラムを用意した『江戸しぐさ講座』を準備中である。」という記述から推察するに、「NPO法人江戸しぐさ」の開始直後に書かれたものらしい。その割には、創始者の本名を「小林和男」と誤記するなど、エーっと言うような誤記もあるのだが。

だとすれば2007年9月5日の開設以降、この誤記は6年以上放置されているわけだ。

さすがにどんなものかと思われる。

連載jpに「福岡の病院火災と同じタイプの小さい病院で寝泊まりした時の恐怖」を寄稿しました。

ガジェット通信系ニュースサイト・連載jpに「福岡の病院火災と同じタイプの小さい病院で寝泊まりした時の恐怖」を寄稿しました。
http://rensai.jp/p/58914

4年前、家族の介護をしていた時、今回の福岡の火災と同じようなタイプの病院に泊まり込んでいたのでその体験を書いたものです。あの頃は介護でほとんど夜眠れなかったので、将棋の本を夜中読みつつ、病人を見ている状態でした。非常に辛かったです。こういう事故がなくなることを願います。また、亡くなった方のご冥福を祈ります。このところの専門分野である、歴史や下町ともあまり関係はないのですが、やはりこういうことは書かないとと思いました。

【書評】江戸打入り(半村良)

江戸打入り(半村良・作)を読んだ。著者は1933年10月27日生まれ~2002年3月4日没の作家で、
SF小説と歴史小説に才能を発揮し、東京下町の人情小説でも鳴らした方である。SF小説で直木賞候補に
なったあと、それが審査員に不評と見るや、「こういうのもできるのですよ」ということで、下町人情
もので直木賞を受賞した。いかにも苦労人らしい重層的な書き方をする人である。私は半村氏の
作品が非常に好きである。この小説も二度目の読破になるが、今度ちゃんと読んでしみじみと感心した。

例の江戸しぐさなどが全くいい加減に考えている、家康の江戸移転について、非常に細かく、よく調べられており、
史料の考証も一々考えさせられるものである。

物語は半武半農の下級武士、鈴木金七郎の視点で語られる。深溝松平家の松平家忠の家臣になった金七郎と、その周りの人足とも武士とも付かない、後世の歴史学では「武家奉公人」と一纏めにされている下積みの人々の目線から、家康の江戸移転が語られる。とにかく、故郷を突然秀吉の命令で離れなければならないことになり、これまでの農村の暮らしを捨てざるをえないこととなった鈴木金七郎のショックと、右も左も分からない寒村(!)での新しい暮らしへの不安が実によく描かれている。そう、1590年当時の江戸は寒村なのだった。
ギャラリー
  • 「現場の空気を感じれば歴史事実が浮かぶんだ!」原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所
  • 「現場の空気を感じれば歴史事実が浮かぶんだ!」原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所
  • 「現場の空気を感じれば歴史事実が浮かぶんだ!」原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所
  • 徳川将軍家は「王」だった?!ー徳川将軍家に贈られていた漢風諡号の謎~
  • 岩手・中尊寺のわんこそば
  • 岩手・中尊寺のわんこそば
  • 岩手・中尊寺のわんこそば
  • 上野「ちゅら海酒蔵」のチャンプル定食
  • 「巣鴨のお地蔵さん」真性寺銅造地蔵菩薩坐像