群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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2014年06月

集英社版『人物中国の歴史』について

このシリーズ、地味な中国史の評伝列伝なのだが意外と役に立つので紹介したいと思う。
後に集英社文庫にもなったのだが、ネット上にはほとんど情報がないので。

集英社版『人物中国の歴史』
編集委員:尾崎秀樹・駒田信二・司馬遼太郎・陳舜臣・常石茂
(二人以上が一つの章で扱われているいわゆる合伝[ごうでん]は中点を付けず、
斉の桓公などの「の」は全て略した)

1、大黄河の夜明け 周公旦・褒姒・斉桓公・晋文公・楚荘王・孔子・伍子胥
2、諸子百家の時代 墨子・予譲ジョウセイ・呉子孫子・商鞅・蘇秦張儀・孟子・荘子
3、戦国時代の群像 楽毅田単・屈原・戦国四君子・呂不韋・荀子韓非子・荊軻コウゼンリ
4、長城とシルクロードと 始皇帝李斯・陳勝呉広・項羽劉邦・呂后・司馬遷など
5、三国志の世界 光武帝・班固など・曹操・諸葛亮姜維・曹丕曹植・阮籍ケイコウ
6、長安の春秋 陶淵明・隋煬帝・唐太宗・玄奘三蔵・則天武后・玄宗楊貴妃・李杜
7、中国のルネサンス 朱全忠・宋太祖・王安石司馬光・欧陽修蘇軾・朱子陸象山・ジンギス汗(元太祖)
8、落日の大帝国 フビライ汗(元世祖)マルコポーロ・洪武帝(朱元璋)・鄭和・王陽明・万暦帝・元末四大家
9、激動の近代中国 ヌルハチ(清太祖)・李自成呉三桂・鄭成功・康煕帝雍正帝・林則徐・洪秀全・西太后
10、人民中国の誕生 孫文・袁世凱・蔡元培・魯迅・蒋介石・梅蘭芳斉白石・朱徳・毛沢東・周恩来
別巻 故事と名言でつづる中国史

見て分かる通り、「なんか聞いたことないなあ」という人が入っている一方「なんでこの人が入ってないんだ」
というのもあり、著者により質がものすごく良かったりものすごく悪かったりして玉石混交である。
私はだいたい読んだが、とりあえず中でよかったのを上げてみたい。

・周公旦(白川静) 文句なしの超ビッグネームである。白川著作集にも同じものが入っている。
・朱子陸象山(野口武彦) わかりにくい朱陸の争いを対談形式にしており大変わかり易い。
・洪武帝(寺田隆信) さすがに大家の作だけ有り大変わかり易い。
・王陽明(宇野茂彦) 冒頭がカッコイイ。

まあ、「曹操」の項で全部三国志演義を丸写しにした某作家もいたのだが…そういうハズレ系の章もある。
だいたい学者が書いた章は出来がいいが小説家が書いていると、あっ(察し みたいのが多いことは否めない。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(5)中国通史の認識誤認

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて更に書こうと思う。

(元ツイッター)倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて



p44-p54には「中国各王朝の実態」と称して、王朝ごとの簡単な年代と解説が出ているが、その解説が「誤解」「中国共産党史観の丸写し」(日本の中国学界で否定)「誤記」が非常に多い。ブログにまとめるに当たり再度読みなおしたが読みなおすたびに誤りが出てくるのである。

まず、「中国各王朝の実態」でなぜ中国共産党の政策「夏殷周断代工程」で決められた年代をそのまま持ってきてしまうんだろうか。

 日本の学界では夏王朝実在性について疑問視しており、「夏殷周断代工程」はトウ小平の娘を親玉とする中国政府お声がかりのやつなんだけどね。それを何故、「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本に書くのであろうか。

 ハッキリ畏友・永一氏が「夏商周三代の紀年について」(http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/column03.html)で断じている通り「夏王朝については、中国では既にその実在を前提に議論が進められているが、欧米や日本では懐疑的な論調がまだ支配的である。」というのが日本の学界の通説である。

 例えば吉川弘文館の年表では夏王朝を認めていない。
 なぜ倉山氏は日本史学の通説を否定して、あたかも中国共産党におもねるように夏王朝を実在として年代もそのまま写したのだろうか?

p45「(殷の)紂王は酒池肉林の語源になるような淫蕩と悪政を繰り広げたので」…それは後世の諸子百家の宣伝だというのが通説である。実は「酒池肉林」を行ったのは夏の桀王だという史書も複数存在しており、(冨谷至『四字熟語の中国史』岩波新書)「嘘つきチャイニーズによるプロバガンダの手口をバラす!」という趣旨の本であればそのこともちゃんと書くべきであった。

p47「漢は武帝の外征で(匈奴の)属国の地位から脱します」…

この本にかぎらずネトウヨ嫌中嫌韓本の「属国」の定義はメチャクチャ。漢ー匈奴は「約して兄弟」なのだから対等国扱いである。国際法学では「属国」は「事実上、政治的、経済的に従属関係にある国。」なのだが、匈奴って漢からカネと宮女をもらっていただけなんじゃないんですかね。漢の皇帝が匈奴に認められないと即位できないとか聞いたことがないぞ。日本もODAを中国に出していたんだが、日本は中国の属国なのだろうか?

p47「『倭人』こと、日本人が文献史料に登場するのはこのころで、「百余国に分かれた国の一つの王が朝鮮半島の楽浪郡に朝貢に来た」とありますが、だからどうだというのでしょうか。」

漢書地理志の有名な記述「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」(楽浪の海中に倭人あり、分かれて百余国となる。歲時をもって来たり、獻見すと云う)を誤解している。別に百余国のうちの一国が来たというわけでもないと思うのだが。「王が来た」とも書いていない。これは諸説あるところだが、例えば古田武彦氏は「倭の人は、百余国が時々定期的に朝貢してきて礼儀を尽くしている」と解釈している。他の論者もだいたい同じようである。「百余国に分かれた国の一つの王」という倉山氏の説は、かなり無理のある解釈ではなかろうか?

また、古田氏は前段の「「殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。(中略)可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!」
(大意:殷の箕子が朝鮮半島に来て民衆に農業や礼儀を教えたので、東夷の人々は他の蛮族と違い文明化されている。ああ、聖人が文明を伝えたというのは偉大なことだ!だから孔子も『私の道は中国人にはよくわからないようだ、海を渡り東夷へ行きたいものだなあ』と嘆いたというのもよく分かる)と合わせて解釈している。これは伊藤仁斎『論語古義』などにも似た説が出ており、「孔子は日本に憧れていた」という有名な説の元ネタであるが、どうして倉山氏はそこを略すのであろうか?

p48「倭などと『チビ』『猫背』の意味で読んでくれていたのが中国人です」…それは藤堂明保説(『学研漢和大字典』)であって古来の解釈ではない。なぜ右派の倉山氏が左派系の藤堂明保説を突然持ってくるのか良くわからない。
 単に中国人を貶めるための目的で左派の説まで動員したのであれば、思想的に純粋ではないし、おまけに藤堂説が学界で通説になっているわけでもないのである。
 漢字の解釈で古来最も権威があるとされている『説文解字』では全然別の説を述べているのだ。
(説文解字)
「順貌。(段注)倭與委義略同。委、隨也。隨、從也。」
从人。委聲。詩曰。周道倭遟。(段注)小雅四牡文。傳曰。倭遟、歷遠之貌。按倭遟合二字成語。韓詩作威夷。故與順訓不同。而亦無不合也。」
(意訳:倭とは順うさまである。委と同じ意味である。随う、従うと同じだ。※人に属する。詩経・小雅・四牡には「周道倭遅(いち)たり」とある。詩経の毛亨の注釈[毛伝]によれば「倭遅」とは遠くめぐり連なるという意味だ)
なお、白川静博士の『字通』でもこの説文解字及び段注の説をほぼそのまま用いている。
※竹内実『新版中国の思想』(NHK出版)では、「道義に従う」と解釈している。これは室町時代の学者・一条兼良の、説文解字を敷衍した『日本書紀纂疏』の説に従ったのであろう。

 なお、学習院大講師の王瑞来氏の論考『「倭」の本義考――あわせてその意味変遷を論ずる――』(http://salon.gooside.com/wakao.htm)によると、倭を蔑称だとするのは『新しい歴史教科書』にも出てくる説だが、漢字「倭」にはもともと悪い意味はなかったという。
 王氏によれば、五胡十六国時代には「燕の魯陽王(慕容)倭奴」という王族までいたという。わが聖武天皇の宣命に「大倭国」というのだから、「(倭を悪字とするのは)おそらく文字学の知識が乏しいための誤解か,あるいは故意に本義を無視して曲解したものであるとしか思われない。」と断ずる王氏の説はなかなか説得力がある。

p49「晋は建国当初から内紛が絶えず(安定した年が、一年としてない)」…いいすぎ。武帝期は安定して人口も増えている。

南北朝時代を「これまでとは比較にならないほど安定した統治」(p50)と言い出すのも訳がわからない。…いなかったことにされた宇宙大将軍キングカワイソス…あと東魏も西魏も政治的には混乱していた。

p51「倭王武が長々と演説」…上表文と演説を混同。

p52「この王朝(唐)の前半150年くらいは文化大国なのですが、それ以降は三国時代と変わらない戦乱と殺戮で衰亡していきます」…安史の乱以降復興してますけどね。

p52「あきれた日本はもはや学ぶものはないと菅原道真が遣唐使を廃止し」…遣唐使廃止は894年で唐滅亡寸前です。

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて(4)三国志誤読箇所

倉山満『嘘だらけの日中近現代史』の誤りについて、連載第4回目となる。今回はp34-43の、「第一章第三節 『インテリヤクザ』諸葛孔明の真実」の部分である。これはブログコメントで三国志の誤りはないのかとリクエストされたからである。誤りと思しき箇所はいっぱいある。正史三国志、資治通鑑、三国志演義毛本、立間祥介訳、吉川英治版を参照しましたがどれとも全く似ていない謎のエピソードが幾つも出てきている。

以下、倉山満『嘘だらけの日中近現代史』を「倉山本」と略す。今回は余りにも多いので、目次をつけることにする。
1,「曹操の本拠は北京?」
2,「『三代奇書』?」
3,「陳寿の賄賂要求?」
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
5,「張飛が泣く?」
6,「奇門遁甲は星占い?」
7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」



1,「曹操の本拠は北京?」
倉山本P35「(劉備たちは)北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操の誘いも断り茨の道を進む」


 曹操の根拠地は移動しているが、最終的な魏王国の首都は魏郡鄴[ギョウ]都(現・河北省邯鄲[かんたん]市)である。
北京(後漢の幽州薊県)を本拠としたことはない。銅雀台も鄴にあったし、魏という国号の由来がそもそも魏郡鄴を領地としていた為に魏公に封ぜられた時に始まるのだからお話にならない。信長の根拠地は安土城(現・近江八幡市安土町)だったが、それを「新潟周辺」というようなもので、支離滅裂である。
 なお、魏(鄴)である現在の河北省邯鄲市と、北京とは400キロ位地図で見ると離れているようだ。安土から北へ400キロ行くと日本海のどまんなかに行くんですよねえ…陸地沿いでも新潟だよ…
 
 この頃の北京は余り大きな都市でもなかったようで、三国志には公孫瓚(コウソンサン)が劉虞を斬った話で多少登場する程度である。曹操は、207年の烏桓討伐の時にちょっと通ったかな?という程度である。
本拠どころの騒ぎではない。

 このあたりのことは三国志演義でもちゃんと書いてある。「北京あたりで勢力を持った軍閥・曹操」は倉山氏によれば「通説」だそうです。そんな通説聞いたことない。
 なお、正史三国志の「北京」の検索結果「0」であった。地名すらなかったのである。
2,「『三代奇書』?」
「(三国志)演義は、孫悟空が活躍する『西遊記』や、ヤクザの群れが梁山泊に集結する『水滸伝』とともに、
「三代奇書」と呼ばれます」(倉山本p37)


倉山氏は三「代」奇書とは書かないで欲しかったなあ。四大奇書が正しい。これはちゃんと故事成語なのだから正しく書くべきである。「馮夢竜亦有四大奇書之目,曰三国也,水滸也,西遊与金瓶梅也。」(明の陽明学者・小説家の馮夢竜が四大奇書を定めた。それは三国志演義・水滸伝・西遊記・金瓶梅である)と清の文人・李漁(りぎょ)が述べていて、それに由来する。編集者も辞書ぐらい引かなかったのだろうか?校正をしたのだろうか?
3,「陳寿の賄賂要求?」
「著者の陳寿はある人物を高く評価しようとして登場人物の子孫に高額の原稿料を要求したという話が残っています」(倉山本P37)


 これは有名な晋書・陳寿伝のガセネタである。

「據《晉書》記載,當時傳聞陳壽曾向丁儀、丁廙的兒子索取立傳費,說:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」結果被拒絕後,陳壽竟然就不為享有高名的丁氏二人立傳。據《三國志·魏書·任城陳蕭王傳》記載,陳壽出生前13年(220年)丁氏兄弟和全家男性就被曹丕殺,根本無後代。如採信此說法,則晉書的記載爲謠言。」
(晋書には、陳寿が丁儀、丁廙の息子に高額の原稿料を要求した話が出てくるが、この丁儀、丁廙の息子は陳寿が生まれる13年前の西暦220年に殺害されているのだから、そもそもそんな人物が居たはずがない。晋書がデマを載せただけだ)
という中国語版ウィキペディア(この記述そのものは清朝考証学者の説に基づく、詳しくは本田済『漢書・後漢書・三国志列伝選』平凡社の解説を参照)の解説で十分であろう。
4,「諸葛亮はコネ頼み?」
「(孔明は)まず、呉で重臣となっている兄の諸葛瑾のコネを頼り、(呉の)朝廷に乗り込みます」(p39)


孔明は諸葛瑾のコネなんか頼ってないです。これは演義も歴史書も吉川版も全く同じですが、呉の魯粛が偵察がてら劉備に会いに来る→孫権・劉備同盟というのが流れである。この辺りは演義の記述は史書をちゃんと踏襲している。

例えば吉川英治はこう書いている。なお、三国志演義でもこの辺りの描写はほとんど同じ(細部は違うが)。
 「魯粛は慎重に、孫権の諮問にこたえた。
「劉表の喪を弔うという名目をもって、私が荊州へお使いに立ちましょう」
「……そして?」
「帰途ひそかに江夏へおもむき、玄徳と対面して、よく利害を説き、彼に援助を与える密約をむすんで来ます」
(中略)
孔明は、「ごらんなさい。今にきっと呉から使者が来るにちがいありません。」(中略)
(周囲は怪しんだが、魯粛は)ほんとうに江夏を訪れて来た。
「呉主孫権の名代として、故劉表の喪を弔うと称し、重臣魯粛と申される方の船が、いま江頭に着きました」
(中略)
(劉備と魯粛が話し合っている席に諸葛亮が呼ばれ)
「亮先生。――自分は先生の実兄とは、年来の親友ですが」と魯粛は、個人的な親しさを示しながら、彼に話しかけた。
「……ほ。兄の瑾をよくご存じですか」と、孔明もなつかしげに瞳を細めた。
(吉川英治『三国志』赤壁の巻より http://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52415_51066.html)


ぶっちゃけ、魯粛は今で言えば業務提携を結びに同業の会社に来た営業マンみたいなもので、その時に諸葛孔明にも会ったので「いやーどうも、諸葛瑾アニキの弟さんですねお元気ですか」とやっただけなんですけどね。孔明自発的にコネなんも使ってないんですけど。

それどころか三国志演義四十四回「孔明用智激周瑜 孫權決計破曹操」では、諸葛瑾は孔明に「俺たち兄弟別れ別れってのは良くないよな?劉備を裏切ってうちに来ない?」と誘って「やだなーアニキこそ、劉皇叔様の家臣になればいいじゃないですかやだー」と返されているわけで全然コネ使わないですね。
5,「張飛が泣く?」
「(曹操を逃した関羽を)戦後の軍議では孔明が軍規を破った関羽の処刑を主張し、張飛が泣いて許しを請い」(p39)

 張飛なんか出てこないんですけどね、その場に。
6,「奇門遁甲は星占い?」
「曹操の寿命が尽きていないことを星占い(奇門遁甲)により知っていた孔明は(中略)天才・孔明は最初からすべて読んでいた、という筋書き」(p39) 


この話はどこにあるのかよくわからず、これも誤りかと思ったが、むじんさんにお教えいただいた。三国志演義第49回にあることはある。ただ引用が変である。

「玄德曰、『吾弟義氣深重、若曹操果然投華容道去時、只恐端的放了。』孔明曰、『亮夜觀乾象、操賊未合身亡。留這人情、敎雲長做了、亦是美事。』玄德曰、『先生神算、世所罕及!』」
(玄徳がいうのに、「弟は義を重んじること深い、曹操が華容道に来ても逃すのではないかと思うがな…」孔明答えて「拙者、夜に「乾象」(天文現象)を見ますと、曹操めの命は尽きておりませぬ。雲長殿に義理を果たさせる良い機会と思います」玄徳「先生の神算鬼謀はまったく感服いたします)[立間祥介訳を元にやや改めた)

星占い(奇門遁甲)というのはなくもがなの注であり、星占い(天文占、天文道)と奇門遁甲とは違うものである。天文占の例を上げよう。
晋書天文志下「明帝太和五年五月,熒惑犯房。占曰:「房四星,股肱臣將相位也,(中略)將相有憂。」其七月,車騎將軍張郃追諸葛亮,為亮所害。十二月,太尉華歆薨。」
(訳:魏の明帝曹叡の太和五年五月、熒惑(けいわく、火星のこと)が星座・房宿(さそり座)に現れた。占いによれば、「房の四星は、股肱の臣、将軍・宰相の位である、(中略)有力な将軍・宰相に良くないことがあるだろう。」ということだった。その七月,車騎将軍[元帥陸軍大将]の張郃が蜀の諸葛亮に追撃され,諸葛軍に討たれてしまった。十二月、太尉[総理大臣]の華歆が薨じてしまった。)
すなわち、火星が将軍・宰相の位である房宿(さそり座)に現れたので魏の文武の要というべき張郃(ちょうこう)・華歆(かきん)、元帥と総理が死んでしまった予兆だというのである。星占いというと恋占いのようななんとなく女子っぽい語感があるので「天文占」と書いていただきたいところだ。

 では奇門遁甲はどうかというとこれは方角占いであって、前出の天文占とは全然別である。北海道大学の猪野毅先生が「奇門遁甲は方位学(空間の学、洛書学)であり、干支学(時間の学、暦学)でもある(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/44606)」といっているのがわかりやすい。『後漢書』方術伝などに出てくるのが初出という。

7,「諸葛孔明ビルマ(ミャンマー)侵略?」
「孔明は今の雲南省やビルマ、ベトナムあたりから人を大量拉致していたということです」(p41)
 
これについて、「…ファッ?!もう何がいいたいんでしょうか。演義でも孔明はビルマ遠征なんかしてないです、もうなんなんだか」とツイッターでコメントした所、清水代歩さん( @kaho_biz)から情報を頂いた。

「「孔明ビルマ遠征」←横山光輝の漫画で木鹿王の八納洞を「ビルマ・インドのあたり」としてました。http://ncode.syosetu.com/n8686m/64/によると中国の学者でそのように主張している人もいるようですが、それをそのまま信じるのかと。しかしベトナムというのは???」


早速調べてみた。この諸葛孔明ビルマ遠征説というのは確かにある。しかし、その根拠は甚だ貧弱なものである。保守系論客(だと思う)の倉山氏が中国の学者の主張を鵜呑みにするようなことはするまいと思うのだが…なお、ベトナムに至っては根拠すら不明である。

この、諸葛孔明ビルマ遠征説は中国の百科事典「百度百科」にも「深入不毛」として立項されている。

成都学者李定与早在上世纪80年代就研究过《出师表》中的“不毛”一词,并有多篇论文发表。在80高龄时,他又根据《大理古佚书钞》中三位明代学者关于诸葛亮南征的研究,沿着诸葛南征的路线,从成都出发,行程75天,最后到达缅甸,发现了许多前人未曾注意到的新论据。后来李先生写出了《<出师表>中“泸”与“不毛”的地理位置》和《诸葛亮南征地理位置考释》等文,发表于《云南时报》、云南《保山日报》和云南《高黎贡》杂志。
以“不毛”称缅甸的,还有唐初四杰的骆宾王。他的《从军中行路难》诗云:“去去指哀牢,行行入不毛”诗中“不毛”,值得也是缅甸。(http://baike.baidu.com/view/1856674.htm)


おおまかに訳すと、「成都の学者、李定という人が既に1980年代から「出師の表」の“不毛”という言葉について論文をたくさん書いた。彼の根拠は『大理古佚書鈔』の中で、三人の明代の学者が主張する「諸葛亮は成都を出発して75日掛かったので、ビルマ(ミャンマー)に到達したに違いない」という説だ。ところが、それ以上の根拠がなかったのであまり注目を引かない説であった。李さんは現地紙の「雲南時報」等に発表した論文で、「唐の駱賓王の詩に「行行入不毛」とある、不毛即ちビルマ(ミャンマー)のことだ」とした。」というのだ。要するに似た音の地名を無理やりこじつけた話である。

中国でもこの説は余り評価されていないのである。李殿元・李紹先著『三国志考証学』(和田武司・訳、講談社)という優れた三国志演義の考証本があるが、この本では「不毛は正確なことを言っているわけではなく、漠然と『深く荒野の地に入った』『深く草木の生えぬ地区に入った』という意味が通説」とし、「不毛というのは元々地名ではない、ミャンマー[ビルマ]、バモーなどの音が近いところを指すことはありえない」と断じている。

ここまでひどい三国志の記述も、なかなかないと思われる。
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