群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

2016年03月

保育園に関する法律の規定(メモ)

最近、報道が多いが自分ではこの法律の事をよく知らなかったので調べた。

児童福祉法には以下の規定がある。
 第二十四条  市町村は、この法律及び子ども・子育て支援法 の定めるところにより、
保護者の労働又は疾病その他の事由により、その監護すべき乳児、幼児その他の児童について
保育を必要とする場合において、次項に定めるところによるほか、
当該児童を保育所(認定こども園法第三条第一項 の認定を受けたもの及び同条第九項 
の規定による公示がされたものを除く。)において保育しなければならない。

市町村は、第二十五条の八第三号又は第二十六条第一項第四号の規定による報告又は通知を受けた児童その他の優先的に保育を行う必要があると認められる児童について、
その保護者に対し、保育所若しくは幼保連携型認定こども園において保育を受けること又は
家庭的保育事業等による保育を受けること(以下「保育の利用」という。)の申込みを勧奨し、
及び保育を受けることができるよう支援しなければならない。

第二十五条の八  都道府県の設置する福祉事務所の長は、第二十五条の規定による通告又は前条第二項第二号若しくは次条第一項第三号の規定による送致を受けた児童及び相談に応じた児童、その保護者又は妊産婦について、必要があると認めたときは、次の各号のいずれかの措置を採らなければならない。

三  保育の利用等(助産の実施、母子保護の実施又は保育の利用若しくは第二十四条第五項の規定による措置をいう。以下同じ。)が適当であると認める者は、これをそれぞれその保育の利用等に係る都道府県又は市町村の長に報告し、又は通知すること。

第二十六条  児童相談所長は、第二十五条の規定による通告を受けた児童、
第二十五条の七第一項第一号若しくは第二項第一号、前条第一号又は少年法 (昭和二十三年法律第百六十八号)第六条の
六第一項 若しくは第十八条第一項 の規定による送致を受けた児童及び相談に応じた児童、
その保護者又は妊産婦について、必要があると認めたときは、次の各号のいずれかの措置を採らなければならない。

  保育の利用等が適当であると認める者は、これをそれぞれその保育の利用等に係る都道府県又は市町村の長に報告し、又は通知すること。

続々「中国人三国時代絶滅説」、加藤徹氏の岡田説批判

さて、岡田英弘氏の「中国人三国時代絶滅説」については、既に加藤徹氏(明治大学教授)が批判している。
戸籍登録人口の激減を額面どおりに受け取り、「華北の平原地帯では住民がほとんど絶滅した」(岡田英弘『だれが中国をつくったか』)と見なす研究者もいる。

しかし、当時、兵士や官吏の人口は一般の戸籍と区別されていた。政府の戸籍把握能力も、低下していた。

それらを考慮すると、おそらく、三国時代の実人口は、後漢に比べて半減していたと見積もられる。
(加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書) 
学者が正面切って名指しで批判するのはかなり珍しい。例えば本郷和人氏は相手がかなりの大家でなければ名指しで批判しないことを明言している(本郷『戦国武将の選択』産経新聞出版)。

加藤氏の指摘はかなり重要で、歴史書に登場する人口はあくまでも政府が把握している戸籍人口にすぎないのである。 

続・「三国時代中国人絶滅説」、本当の人口統計はどのくらいなのか?

前回、岡田英弘氏(東京外語大名誉教授)の「三国時代中国人絶滅説」に疑問視する意見を書いた所、ネット上で反応を頂いたので再度これについて補足したいと思う。ちなみに、岡田氏は別の本ではもっとトンデモないことを言っていた。

 岡田英弘氏のトンデモ認識「中国の人口が激減しなければ、日本は中国語をしゃべって毛沢東万歳を叫んでいた?」
もし黄巾の乱が起こらず、中国の人口があれほど激減しなかったならば、朝鮮半島も日本列島も巨大な中国の実力の前に完全に中国化して、いまごろわれわれも中国語をしゃべり、毛沢東思想万歳や四人組追放、改革開放を叫ばなければならなかったかもしれない。
(岡田英弘『やはり奇妙な中国の常識』ワック、2003。元の本は1997年の『中国意外史』(新書館))

まず、岡田氏の説について再掲しておく。(『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)より)

黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。といっている。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
これについてだが、おそらく「中国の人口は十分の一に激減」「漢族の絶滅」という話は、伝統的な誤読をそのまま引きずってしまったのではないか?と思う。

『十八史略』の影響?

伝統的な中国史の史観では、中華思想に基づき、五胡十六国・南北朝時代の北中国はほぼ廃墟だとされていた。それが諸悪の根源ではないか。例えば晋書・世説新語・十八史略などにはこのような記述がある。
 桓温督諸軍討襄。進至河上。與寮屬登平乗樓、北望中原歎曰、使神州陸沈百年。王夷甫諸人、不得不任其責。

<意訳>
東晋の
桓温が軍勢を率いて黄河に差し掛かった。桓温は楼閣に登って廃墟になった北中国を 眺め、「中国を廃墟にし、失われた百年にしてしまったのは、永嘉の乱を引き起こし、政治を放棄して責任逃れをした王夷甫たちのようなお粗末な政治家どもの責任ではないか!」と嘆いた。(十八史略)
この十八史略の「神州陸沈」という話が余りにもドラマティックだったために、古い漢文教育を受けた人は「ああ、304年の永嘉の乱により中国は壊滅してしまったんだな」「その前の三国時代の英雄の話はすべて滅んでしまったんだな」と考えがちなのかもしれない。「神州陸沈」という言葉は四字熟語として幕末から戦前にかけてかなり流行っていたらしく、吉田松陰や徳富蘇峰の文章の中に「神州陸沈」という言葉が見られる。

 しかし、 永嘉の乱での死者はどう多く考えても20万程度でしかなく、晋書によれば370年の北中国東半分(前燕国)の人口は998万人も居たのである!

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(前燕があった370年頃の中国諸国。人口を資料によって付記した。)

南朝もそれなりに人口が居たが、やはり北朝の方が人口が多いようである。前秦・代・涼の三国は人口不明)

前燕は998万人、 南の東晋は468万人(これは東晋滅亡後すぐの劉宋の数字だが禅譲なのであまり人口増減はないはず)

前秦・代・涼の三国はよくわからないが、西晋が1616万人だったので、永嘉の乱での最大死者数(20万?)を減らし、前燕・東晋分を減らすと、残りは130万人で、だいたいそのぐらいではないだろうか。要するに1500~1600万人台で大差なかったのだろう。これでも後漢最盛期は約6000万人くらいの人口が居たので、4分の1程度まで減っていることになる。

さて、この後南北朝が分立すると北朝2000万、南朝200万人前後で推移する。戦争が減ると南朝から北朝へ帰郷する人も増えたであろうし、新たに来た騎馬民族もいたであろう。ただそもそも論として騎馬民族がものすごくたくさん居たとも思えないので、元からいた漢民族1500万、騎馬民族500万程度で混血が進んだと考えたほうがいいかもしれない。だとすれば中国人絶滅というのはかなり怪しいと見ていいのではないか。

南北朝が統一された唐の貞観年間、人口は1325万人だったという。隋と唐の間でも「隋唐演義」に脚色されるような戦乱が有り、一時的に人口が減少したが、その後人口は3710万まで回復している。玄宗皇帝の頃には後漢の最盛期の人口に近い数字まで人口増加が見られるのである。

(参考文献:『戦略戦術兵器事典 中国編』学研所載の「中国人口変遷史」表より) 
地図はウィキペディアから引用したものに追記。 

やってしまいましたなぁ…「三国時代中国人絶滅説」は史料の誤読?

意外に薄弱な根拠

歴史学者の岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)がしばしば主張している「三国時代に漢民族は激減し、ほぼ絶滅した」という説は、トンデモ本で拡大解釈して使われる他、保守系の文化人の漢文解釈書でもしばしば出てくる説である。

しかし、この根拠となる部分を漢文史料原文に当たり直してみると、意外と怪しいのではないか?と思わざるをえない。

例えば、岡田氏は著書『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)で以下のように言う。
黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人(松平注:陳群・杜恕ら)が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
まず、杜恕は「いま大魏は十州の地を奄有しているが、喪乱の弊を承けて、その戸口を計れば、往昔の一州の民にも如かない」という話は、陳群伝にも同じ話が出てくるが、三国志の注で裴松之がツッコミを入れているので、そもそも白髪三千丈式のお話でしか無い。
<原文・原注>
況今喪亂之後,人民至少,比漢文、景之時,不過一大郡。(三国志・魏書・陳群伝)

臣松之案:漢書地理志云:元始二年,天下戶口最盛,汝南郡為大郡,有三十餘萬戶。則文、景之時不能如是多也。案晉太康三年地記,晉戶有三百七十七萬,吳、蜀戶不能居半。以此言之,魏雖始承喪亂,方晉亦當無乃大殊。長文之言,於是為過。

<意訳文>
陳群「いまは葬乱の後で、人民は至って少なく、漢の文帝・景帝の時に比べれば大郡一つ程度の人口しかいません」

臣、裴松之が考察します。この陳群の発言は言い過ぎです。
「漢書地理志」によりますと漢の武帝の最盛期の人口でも、一番大きな郡の世帯数は「30万」しかありません。文帝・景帝の時はこんなに多くなかったでしょう。晋の
太康三年の記録ですと、魏の本土には「377万世帯」がおり、呉・蜀の世帯数はそれに比べて半数以下だとあります。魏の初期は戦乱の後だったとはいえ、晋の太康三年の記録とそう大きく数字が違うことはありえません。陳群は大幅に数字を盛っているのでしょう。 
さらに、221年の「生き残りの中国人の中都の地への移住」について。これの典拠は正史三国志・魏書文帝紀の注に引用する「魏略」と思われる。
<原文> 
魏略曰:改長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界[炎β],為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。
<現代語訳>
「長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽の5つの県を改めて都とした。また、石の標識を立てて、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)をそれぞれ境界として、その内側を「中都」とし、天下の人々にそのなかに移住することを許したうえ、五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された」(守屋洋・訳。『正史三國志英傑伝 1 魏書』徳間書店より)
ぜんぜん違うじゃないか!!

なぜ、岡田氏は誤読してしまったのか。

ここが漢文の恐ろしいところである。漢字一字を飛ばしただけで意味が全く変わってしまうのだ。
岡田氏は「令天下聽內徙」(天下をして内に徙(うつ)るを聴かしむ=天下の人民が首都圏に移住するのを許可した徙は移とほぼ同じ)を誤読して、
令天下内徙」(天下をして内に徙す=天下の人民を中都(=中国)へ強制移住させ、他の土地はほとんど人がいなくなった)としてしまったのではないか。

そして、「中国人は激減して完全に絶滅した」という説を導き出してしまったのだと思う。(この中都地域の人々は後の永嘉の乱でほぼ死に絶えてしまったので)

岡田氏は別の著書『やはり奇妙な中国の常識』(ワック)でも、
魏は建国の翌年の221年、河南省の北部から山東省の西部、安徽省・江蘇省の北端にわたる東西に細長い地域を内地に指定して、周囲に石の境界標を立て、支配下の人民を強制的にその内側に移住させた。
 つまりここだけが中国だということで、その外側は屯田兵が基地に居るだけの空地になったのである。(同書26ページ) 
と解釈しているが、やはり誤読であろう。

 残念ながら岡田氏の読み方だとその後ろの「復五年,後又增其復。」(五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された)が全く意味不明になってしまう。強制移住なのになぜ減税の優遇措置までしているのか訳がわからない。

もっといえば、中都=中国という読み方も強引すぎると思う。司馬貞の史記索隠では「中都とは都内というようなものだ」と解釈しており、この魏略の記事でも、中都とは単に「首都圏」  と言いたいだけではないか。

更に、魏書文帝紀のこの続きの部分では、「中都」以外の地域でも内政を行ったり、イナゴの害の対策を行ったりしているのである。岡田氏の説では「屯田兵が基地に居るだけの空地」でなぜ内政を行うのであろうか?おそらく首都圏以外にも普通に人が住んでいたのであろうとしか考えられない。
三年(中略)秋七月,冀州(現在の河北省)大蝗,民飢,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。
十一月庚寅,以冀州飢,遣使者開倉廩振之。
六年春二月,遣使者循行許昌以東盡沛郡,問民所疾苦,貧者振貸之。
たぶん、以前の本で記憶か自分の古いノートを元に誤写したときの誤りがずっと訂正されていないものだと思うのだが、なにしろ国立大名誉教授がこういうことを書いてしまうと信じこむ人も出るのである。

たとえば、ある大学名誉教授(専門は英文)は、
「三国志の頃の中国人と、今の中国人はまるで違ってしまっている。おかしいと思っていたが岡田英弘氏の本を読んでなるほどと納得した。三国時代の中国人は絶滅してしまい今の中国人とは別の民族なのだ」
と漢文解釈書で平然と述べていた。お、おお… 

「コンス」なるものの起源について

調べていくうちにあまりにも起源が混乱しすぎていて訳がわからないので、とりあえず現時点で
わかったことをメモしておく。

この、コンスは韓国式のお辞儀という話は2013年頃から出回り始めたものであるらしい。
例えばこの「非韓三原則」なる憂国国士系ブログには、
http://3gensoku.seesaa.net/article/370846368.html
「変な「お辞儀」の正体 朝鮮式(韓国式)コンス」とあり、
「最近、巷で見かける「変なお辞儀」について、有名ブログに取り上げられていて話題になっていますね。
調べてみますと2013年1月ごろからネット上で多く取り上げられているようです。」
とある。
根拠も何もなく、「維新政党・新風」系の憂国国士系嫌韓界隈で広まったうわさ話が元ネタらしい。
なお、googleトレンドで「コンス」を調べると2005年頃に盛り上がり、その後沈静化した
話が、2013年に「行動する保守」界隈に入った(要するにネットde真実というやつだろう)、
名古屋の女性が運営するブログがこの「コンス」をひたすら批判するブログを立ち上げてから
またネット上で話が流布するようになっている。
それに江戸しぐさビリーバー「ねずさんのひとりごと」が乗っかり、それを2014年に某保守系芸能人がツイートして
ネットで「一級コンス鑑定士」などと叩かれて大炎上、現在は一部でしか話しにならなくなっているようである。

今調べた中で最も古い記事は2013/09/13(金)のこれ。
 http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-8790.html

「 朝鮮式お辞儀 
http://yasai21.blog6.fc2.com/blog-entry-1451.html 
○○○○氏(※2)の証言を受けて、おぼろげに判明した時系列 
http://kzilbe5678.blog.fc2.com/blog-entry-263.html 

日本(皇室) 
 ↓ 
三越他 → 朝鮮へ 
 ↓       ↓ 
日本の   朝鮮式と混ざる 
接客業     ↓(肘を張る) 
(肘張らない) ↓ 
 ↓       ↓ 
今ココ ←← 侵略中(マナー教室を悪用?)」

(※1) 産経新聞社系列の産経デジタルが運営していたブログサービス。
憂国国士系ブログの本家本元だったが、2014年3月にデータが削除され消滅した。
(※2) 実在する右翼活動家と同姓同名の人物の名前が入るが伏せ字
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