群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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2016年03月

保育園に関する法律の規定(メモ)

最近、報道が多いが自分ではこの法律の事をよく知らなかったので調べた。

児童福祉法には以下の規定がある。
 第二十四条  市町村は、この法律及び子ども・子育て支援法 の定めるところにより、
保護者の労働又は疾病その他の事由により、その監護すべき乳児、幼児その他の児童について
保育を必要とする場合において、次項に定めるところによるほか、
当該児童を保育所(認定こども園法第三条第一項 の認定を受けたもの及び同条第九項 
の規定による公示がされたものを除く。)において保育しなければならない。

市町村は、第二十五条の八第三号又は第二十六条第一項第四号の規定による報告又は通知を受けた児童その他の優先的に保育を行う必要があると認められる児童について、
その保護者に対し、保育所若しくは幼保連携型認定こども園において保育を受けること又は
家庭的保育事業等による保育を受けること(以下「保育の利用」という。)の申込みを勧奨し、
及び保育を受けることができるよう支援しなければならない。

第二十五条の八  都道府県の設置する福祉事務所の長は、第二十五条の規定による通告又は前条第二項第二号若しくは次条第一項第三号の規定による送致を受けた児童及び相談に応じた児童、その保護者又は妊産婦について、必要があると認めたときは、次の各号のいずれかの措置を採らなければならない。

三  保育の利用等(助産の実施、母子保護の実施又は保育の利用若しくは第二十四条第五項の規定による措置をいう。以下同じ。)が適当であると認める者は、これをそれぞれその保育の利用等に係る都道府県又は市町村の長に報告し、又は通知すること。

第二十六条  児童相談所長は、第二十五条の規定による通告を受けた児童、
第二十五条の七第一項第一号若しくは第二項第一号、前条第一号又は少年法 (昭和二十三年法律第百六十八号)第六条の
六第一項 若しくは第十八条第一項 の規定による送致を受けた児童及び相談に応じた児童、
その保護者又は妊産婦について、必要があると認めたときは、次の各号のいずれかの措置を採らなければならない。

  保育の利用等が適当であると認める者は、これをそれぞれその保育の利用等に係る都道府県又は市町村の長に報告し、又は通知すること。

続々「中国人三国時代絶滅説」、加藤徹氏の岡田説批判

さて、岡田英弘氏の「中国人三国時代絶滅説」については、既に加藤徹氏(明治大学教授)が批判している。
戸籍登録人口の激減を額面どおりに受け取り、「華北の平原地帯では住民がほとんど絶滅した」(岡田英弘『だれが中国をつくったか』)と見なす研究者もいる。

しかし、当時、兵士や官吏の人口は一般の戸籍と区別されていた。政府の戸籍把握能力も、低下していた。

それらを考慮すると、おそらく、三国時代の実人口は、後漢に比べて半減していたと見積もられる。
(加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書) 
学者が正面切って名指しで批判するのはかなり珍しい。例えば本郷和人氏は相手がかなりの大家でなければ名指しで批判しないことを明言している(本郷『戦国武将の選択』産経新聞出版)。

加藤氏の指摘はかなり重要で、歴史書に登場する人口はあくまでも政府が把握している戸籍人口にすぎないのである。 

続・「三国時代中国人絶滅説」、本当の人口統計はどのくらいなのか?

前回、岡田英弘氏(東京外語大名誉教授)の「三国時代中国人絶滅説」に疑問視する意見を書いた所、ネット上で反応を頂いたので再度これについて補足したいと思う。ちなみに、岡田氏は別の本ではもっとトンデモないことを言っていた。

 岡田英弘氏のトンデモ認識「中国の人口が激減しなければ、日本は中国語をしゃべって毛沢東万歳を叫んでいた?」
もし黄巾の乱が起こらず、中国の人口があれほど激減しなかったならば、朝鮮半島も日本列島も巨大な中国の実力の前に完全に中国化して、いまごろわれわれも中国語をしゃべり、毛沢東思想万歳や四人組追放、改革開放を叫ばなければならなかったかもしれない。
(岡田英弘『やはり奇妙な中国の常識』ワック、2003。元の本は1997年の『中国意外史』(新書館))

まず、岡田氏の説について再掲しておく。(『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)より)

黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。といっている。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
これについてだが、おそらく「中国の人口は十分の一に激減」「漢族の絶滅」という話は、伝統的な誤読をそのまま引きずってしまったのではないか?と思う。

『十八史略』の影響?

伝統的な中国史の史観では、中華思想に基づき、五胡十六国・南北朝時代の北中国はほぼ廃墟だとされていた。それが諸悪の根源ではないか。例えば晋書・世説新語・十八史略などにはこのような記述がある。
 桓温督諸軍討襄。進至河上。與寮屬登平乗樓、北望中原歎曰、使神州陸沈百年。王夷甫諸人、不得不任其責。

<意訳>
東晋の
桓温が軍勢を率いて黄河に差し掛かった。桓温は楼閣に登って廃墟になった北中国を 眺め、「中国を廃墟にし、失われた百年にしてしまったのは、永嘉の乱を引き起こし、政治を放棄して責任逃れをした王夷甫たちのようなお粗末な政治家どもの責任ではないか!」と嘆いた。(十八史略)
この十八史略の「神州陸沈」という話が余りにもドラマティックだったために、古い漢文教育を受けた人は「ああ、304年の永嘉の乱により中国は壊滅してしまったんだな」「その前の三国時代の英雄の話はすべて滅んでしまったんだな」と考えがちなのかもしれない。「神州陸沈」という言葉は四字熟語として幕末から戦前にかけてかなり流行っていたらしく、吉田松陰や徳富蘇峰の文章の中に「神州陸沈」という言葉が見られる。

 しかし、 永嘉の乱での死者はどう多く考えても20万程度でしかなく、晋書によれば370年の北中国東半分(前燕国)の人口は998万人も居たのである!

600px-Map_of_Sixteen_Kingdoms_4
 
(前燕があった370年頃の中国諸国。人口を資料によって付記した。)

南朝もそれなりに人口が居たが、やはり北朝の方が人口が多いようである。前秦・代・涼の三国は人口不明)

前燕は998万人、 南の東晋は468万人(これは東晋滅亡後すぐの劉宋の数字だが禅譲なのであまり人口増減はないはず)

前秦・代・涼の三国はよくわからないが、西晋が1616万人だったので、永嘉の乱での最大死者数(20万?)を減らし、前燕・東晋分を減らすと、残りは130万人で、だいたいそのぐらいではないだろうか。要するに1500~1600万人台で大差なかったのだろう。これでも後漢最盛期は約6000万人くらいの人口が居たので、4分の1程度まで減っていることになる。

さて、この後南北朝が分立すると北朝2000万、南朝200万人前後で推移する。戦争が減ると南朝から北朝へ帰郷する人も増えたであろうし、新たに来た騎馬民族もいたであろう。ただそもそも論として騎馬民族がものすごくたくさん居たとも思えないので、元からいた漢民族1500万、騎馬民族500万程度で混血が進んだと考えたほうがいいかもしれない。だとすれば中国人絶滅というのはかなり怪しいと見ていいのではないか。

南北朝が統一された唐の貞観年間、人口は1325万人だったという。隋と唐の間でも「隋唐演義」に脚色されるような戦乱が有り、一時的に人口が減少したが、その後人口は3710万まで回復している。玄宗皇帝の頃には後漢の最盛期の人口に近い数字まで人口増加が見られるのである。

(参考文献:『戦略戦術兵器事典 中国編』学研所載の「中国人口変遷史」表より) 
地図はウィキペディアから引用したものに追記。 
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