「風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る」というブログを見て、東浩紀氏の発言に非常に腹がたったので書く。
 http://d.hatena.ne.jp/ta26/20160428

「東氏はまず民俗学者の柳田國男の言説を参照して、日本人は、そもそも死者の名を忘れる文化のなかに生きていると述べる。昔の日本人の先祖に対する考え方は、子や財産の有無に基づいた差別待遇はせずに、人は亡くなってからある年限を過ぎると、それから後はご先祖様、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうものとしていたようだ、という。だから、仏式葬儀の戒名のような『祖先の個性』ともいうべきものを、いつまでも持続して行くような近年の習俗は、『祖霊の融合単一化という思想とは、両立し難いもの』と柳田は『先祖の話』*2で記しているという。」 (引用終わり)

東浩紀氏は最近の歴史研究をご存じないのか、柳田國男の言説は現在ではほとんど死んでいるような説なのである。
柳田国男特有の、仏教嫌いのポジショントークに過ぎないということも、昔から指摘されている話である。

(※1 例えば最近の本から上げてみると、釈徹宗『仏教ではこう考える』学研新書、2008に柳田の言説が仏教嫌いのあまり事実を歪曲したものである旨の指摘が有る)
 
 そもそも、『先祖の話』も柳田が靖国神社護持の為に創作した「江戸しぐさ」のようなものにすぎない。そもそも「昔の日本人の先祖に対する考え方」は柳田特有の「ぼくのかんがえたむかしのにほんじん」に過ぎず何らの裏付けもないのである。

柳田説の「昔の日本人が先祖の名前を知らなかった」ことの反証は多い。

(※2 柳田も実はこの点についてフォローを入れているという小堀桂一郎氏の指摘も有る。ただし、柳田が想定しているモデルは有名な先祖の名前について覚えており、その先祖が我々子孫を守ってくれるという考え方であり、私がいかに述べる考え方とはかなり異なる。何れにせよ東浩紀氏はこの柳田の言説もよく読めていないのだろうか? 小堀『靖国神社と日本人』PHP新書、1998)

例えば、江戸幕府はなんども大名・旗本・御家人に先祖由緒書きを提出させており、それらについては細かい事績までも付けさせている。その研究は殆ど行われていなかったが、近年、小川恭一氏・新田完三氏などによる研究が進み、 少しづつ一般の人にも分かるようになってきている。そこには膨大な死者の名が刻まれているのだ…

新田完三氏が指摘するところでは、例えば織田信長についても、なんとその家譜は平安末期の寿永2年(1183)の平家都落ちから筆を起こされており、平清盛の孫・新三位中将資盛のご落胤である初代・織田親真が妻に、「生まれてくる子が男の子なら、平家再興と先祖の仇討をやらせてほしい」という所から始まるというのである。織田信長は初代から数えて18代、その間の先祖の名前は全て記録されているのである。そして、その物語は、信長が平家を再興して織田政権(近年の藤田達生氏などの研究では、これを安土幕府という)を樹立し、源氏の足利幕府を打倒したことでひとまずケリがつくのである。

(※3 新田『戦国城主諸家伝―徳川外様大名篇』勉誠出版、2001などによる。織田信長を平家再興とする言説はすでに当時から存在していたことを「朝日百科・日本の歴史」などでは指摘している。そもそも信長本人が元々平家の領地だった越前を制服した後、1571年に「平信長」名で文書を発給している。なお、信長は「藤原信長」名でも文書発給しており、1571年の「平信長」名は新政権樹立へのイメージアップ戦略であったか?という山田真哉氏の見解も存在する。なお、織田親真が平資盛の子という話は明らかに後世の創作のようであるが、本稿では「先祖の名前を知らなかった」という言説へのカウンターとして織田信長が主張していた伝説を、あえてそのまま書いている。念のため)

「人は亡くなってからある年限を過ぎると、それから後はご先祖様、またはみたま様という一つの尊い霊体に、融け込んでしまうもの」などという柳田の言説が怪しいことがお分かりいただけるであろうか。

八切止夫は柳田を批判し、「先祖代々供養という風習は明治時代から始まったものだ」と言っている。「仏式葬儀の戒名のような『祖先の個性』ともいうべきものを、いつまでも持続して行くような近年の習俗」などという柳田の言説の根拠は極めてあやふやなのである。
(※4 複数の墓石業者のwebサイトには、先祖代々の墓と言うもの自体が明治大正期の産物で、それ以前は個人の墓であったことを述べている)

江戸幕府では歴代将軍の忌日を厳密に守っており、忌日には何も出来ないので政治が滞るほどであった。庶民はどうだったのかというと、意外と系図を蔵している家も多く、丹羽基二の研究によれば「陰姓」といって苗字を名乗れない庶民でも先祖の姓を持っている人は少なくなかったという。

更に、大正時代には西田無学の「総戒名お祀り込み」という運動さえも起こっている。これは従来の先祖供養を更に徹底させ、父方の先祖だけではなく母方の先祖、更には一切の生物をも先祖として供養すべきだという主張であった。
西田は無縁仏の墓を訪ねて死者の名を収集し、それらを供養することさえしている。西田の影響を受けたのが霊友会や立正佼成会である。沖縄戦の死者全てを刻む「平和の礎」もこの発想の延長線上にあるのではないか。

柳田はそれをおそらく面白く思わなかった。だからワザと「仏式葬儀の戒名のような『祖先の個性』ともいうべきものを、いつまでも持続して行くような近年の習俗」と貶しているのであろう。柳田の弟子が創価学会の開設者だというのも或いは関係しているかもしれない。創価学会が霊友会や立正佼成会を嫌っていることは常識であろう。
そして、この『先祖の話』は終戦工作中に書かれ、靖国神社で戦後すぐに行われた「新国学講座」の一つなのである。柳田の意識の中には「靖国を護持するために」というものがあったであろう。その中で「匿名の集合霊」なる理屈が作られたのではなかろうか。実はこの説明は靖国神社が戦犯の霊を分けることを拒む一つの理由なのである。

そうしてみると、東浩紀氏の「ぼくたちは、死者から名を奪い、死の固有性を忘れ、匿名の集合霊に変えることでのみフルい立ち未来に向かうことができるという、じつに厄介な伝統を抱えている。」 などという発言は、江戸しぐさを信じ込んでいる人レベルの話なのである。そもそも文庫本一冊の「先祖の話」(しかも、それもななめ読みなのではないか?柳田国男の問題意識や、それを書かずに居られなかった柳田の思いをきちんと受け止めているのだろうか?)程度で「伝統」を安直に理解した気になる事自体が問題だというべきである。伝統というのはそんな甘いものではない。

歴史を遡ると、日本人は江戸時代まで徹底的に先祖供養をしてきた民族であって、それを近代化して捨てたあとに柳田のようなそれを自己正当化した言説を抱えた民族なのである。その柳田のようなお上の理屈に、民衆側の西田無学らが抵抗し、先祖の数を増やすという逆襲さえもしているのを東氏はおそらく知らないのであろう。
このように誤った先祖観で「慰霊」などという言説を弄する事自体が、大変な日本の伝統への冒涜だということを分かっているのであろうか。

それはあたかも、急ごしらえの日本国憲法を伝統視するサヨクや、なにかというと教育勅語を持ち出す極右と大して変わらないというべきである。