群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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江戸時代

Q&A 原田伊織のサムライエッセー批判まとめ

目次:
1,原田伊織氏のサムライエッセーとはなんですか?
2,原田伊織氏とはどういう方ですか?
3,『明治維新という過ち』は隠された真実を描き出すものでしょうか?
4,「その場に佇めば歴史事実がわかる」とはどういうことですか?
5,幾らなんでも江戸しぐさとは同列に扱うのはおかしいんじゃないですか?
6, 参考文献が68冊もあるのですからその中には史料もあるでしょう。小説ばかりという批判はよくないのでは?
7,長州が明治以降の日本を捻じ曲げて侵略戦争を始めたのは事実ではないのですか?
8,今の安倍政権は薩長政権だと原田伊織氏は断言していますが本当ですか?
9,「攘夷」「維新」「国体」「志士」などの言葉は水戸学や長州テロリストの創作なのですか? 

10,教科書会社は原田伊織氏とどういう関係にありますか? 

1,原田伊織氏のサムライエッセーとはなんですか?

作家の原田伊織氏の本の総称のようです。
原田伊織氏の公式サイトでは自分の著作のことを「サムライエッセー」と呼んでいます。

2,原田伊織氏とはどういう方ですか?

本名は原正和というようで、公式プロフィールは下記のとおりです。自分でも言われていますが歴史学を学んだことはないようです。
【原田伊織プロフィール】

作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加した
マーケティングの専門家でもある。

株式会社Jプロジェクト代表取締役。
1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、
彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。
おもな著書に、『原田伊織の晴耕雨読な日々』『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』
『官賊と幕臣たち』『夏が逝く瞬間』(以上、毎日ワンズ)、
『大西郷という虚像』(悟空出版)など。

 (http://j-project.biz/iori_harada.htmlより)
3,『明治維新という過ち』は隠された真実を描き出すものでしょうか?

そういうには余りにも疑問が多いです。
まず、原田伊織氏が「発見」した話は「明治維新はなかったろう論」のように辞書も引かずに思いついたものが多く、それ以外の話は小説から取ったのではないかという物が多いのです。単純な事実誤認もかなり多いです。

水戸藩関係の事実誤認は既に書きました。

他の事実誤認の例として「明治維新はなかったろう論」があります。

これは、原田伊織氏が主張する「明治維新という名称は明治時代にはなく、昭和維新を起こしたテロリスト・右翼・軍人たちが流行らせた」「維新とか攘夷とかはテロリスト育成をしていた水戸学が創作した新語」というものです。

これは国語辞典をひくだけでも維新は『詩経』由来だということが分かりそうなものですし、江戸時代の平戸藩主・松浦静山が藩校に「維新館」とつけているぐらいで、水戸学創作説には何の根拠もありません。

明治維新という言葉は明治21年の小中村義象『大政三遷史』で「明治維新」という言葉が既に使われています。



維新という言葉そのものが明治時代の文献(例・明治五年の沖志楼主人『維新御布告往来』)などに出てくる始末です。

4,「その場に佇めば歴史事実がわかる」とはどういうことですか?
原田伊織氏が主張する歴史書の書き方です。彼は、「歴史資料は副次的なものであり、歴史上の事件が起こった現場に行けば、私にはその状況が浮かんで見えるんだ」と主張しています。史学は史料を基礎とするものなので、その時点でこの話は歴史学を越えてしまっています。

5,幾らなんでも江戸しぐさとは同列に扱うのはおかしいんじゃないですか?
「江戸しぐさ」の江戸っ子狩りは、会津での薩長の虐殺を強調しており、原田伊織氏とはよく似ています。

江戸しぐさでは「薩長は世界金融支配者の裏からの支援を受けて江戸っ子狩りを行った」としており、原田伊織氏は「坂本龍馬はグラバー商会の手先であり戊辰戦争を起こして金儲けを企んでいた」としています。

おそらく、戦後になって郷土史家が思いつきで発表した「会津観光史学」と言われる創作実話が、江戸しぐさにも原田伊織氏のサムライエッセーにも影響を与えているのだろうと思われます。

6, 参考文献が68冊もあるのですからその中には史料もあるでしょう。小説ばかりという批判はよくないのでは?


原田伊織氏の参考文献は『明治維新という過ち』では68点中35点(対談含む、51%)が小説家の手によるものです。同時代人が残した史料は『新撰組顛末記』わずか1点(これも大正期に新聞記者が取った聞き書きで信憑性はあやしい)です。古文書や当時の報道はゼロです。

参考文献の中で、原史料と言えそうなものはイザベラ・バード、永倉新八『新撰組顛末記』、『ベルツの日記』、山川菊栄『武家の女性』のわずか4点に過ぎず、うち幕末維新と直接関係するのは『新撰組顛末記』わずか1点です。

『ベルツの日記』を原田伊織氏はやけに強調しますが、この本は「日本人は過去の歴史を無視して嘆かわしい」という原田伊織氏にとって極めて都合のいい主張が出てくるので愛用しているようです。

当時の史料には、原田伊織氏の主張に全く合致しないものが多いのですが、そんなものは彼は使おうとしません。
「明治維新は土俗的な革命」だと述べ、明治の人々の江戸っ子的な気風を詳述するお雇い外国人のメーチニコフが書いた『回想の明治維新』(1888[明治21]~1889[明治22]のロシア紙の連載)や、

誤認逮捕された江戸っ子が自分と身重の妻を拷問した徳川幕府江戸町奉行所の理不尽さに怒り、
「実に徳川は亡びていい気味だと思うぐらいです」
と痛烈な批判をしている『幕末百話』(明治35年の報知新聞連載)は絶対に使わないと思います。
※ちなみに報知新聞は創業者も主筆も旧幕臣というガチガチの佐幕派。特に主筆の栗本鋤雲(くりもとじょうん)は、あの「鬼平」こと長谷川平蔵の甥。

幕末の徳川幕府はいろいろな面で統治能力を欠いており、特に法制や町奉行所は相当ひどいありさまで、明治政府になって改善されたために江戸っ子たちが喜んだ史実は今後も一切書かないと思います。

では原史料と小説家の本以外の本は何か?と申しますと郷土史家が書いたガイドブック類とどういうわけか民俗学の本、戦国時代の概説書など、幕末維新とどう関係するんだろうという本が多いのです。

戦国時代の概説書がなんで出てくるのかと言えば「長州テロリストと水戸藩は戦国時代に乱取りをしていた雑兵上がりのチンピラゴロツキの成れの果てであるから道徳観が薄く、平気で残虐行為をしていた」という原田伊織氏の説を補強するために藤木久志先生の本を持ち出したからです。徳川幕臣にも曲淵吉景(まがりぶち・よしかげ)のような雑兵上がりがいますし、「大名の先祖は野に伏し山に伏し」という古川柳を引用するまでもなく、出自定かならぬ武士はかなりいました。

特に江戸後期は農民出身や商人出身の武士が幕臣でも多く、元は豪農だった安生太左衛門の子で、火消し人足の上がりという噂まであるにも関わらず町奉行まで出世した根岸鎮衛(ねぎし・やすもり)や、庄屋の息子だった幕末の幕府歩兵頭取の古屋佐久左衛門、古屋の弟で奥詰医師の高松凌雲(たかまつ・りょううん)など、原田伊織氏流に言えば「道徳観念の薄い庶民出身者のにわかザムライ」は、幕臣でも数えればきりがないほどです。もちろん榎本武揚(父が庄屋の息子)や近藤勇・土方歳三(家はいずれも農業)はいうまでもありません。

つまり、原田伊織氏の「サムライエッセー」は、「耳ざわりの良い日本スゴイ論を基礎にし、適当な小説を組み合わせて、今の日本の悪い状態の責任を全て長州と水戸におっかぶせ、まるで鬼畜外道のように描写し、都合の悪い話は書かない」という、マーケティング的には大変優れたものです。ある週刊誌が早速飛びついて連載をもたせるのも分かります。

歴史を語るという上ではどうかと思います。「はちま起稿」「ウェルク」の歴史版と言ってもいいと思います。

7,長州が明治以降の日本を捻じ曲げて侵略戦争を始めたのは事実ではないのですか?
昭和時代の指導者の多くは長州出身ではありません。

例えば東条英機は南部藩士の出身、山本五十六は同じく長岡藩、米内光政は庄内藩でいずれも奥羽越列藩同盟側の人であり、長州とは全然関係がありません。

最近の伊藤隆氏らの研究では、長州出身の元老・山県有朋が日中提携論を唱え、アメリカとも対立すべきではないと平和主義を説いていたのに、どちらかと言えば奥羽越列藩同盟系の人々が好戦的だったことが分かっています。山県と共に平和主義を説いていた原敬首相はテロで暗殺されていますが、犯人の大叔父は旧高遠藩出身で、長州とは無関係です。八幡和郎氏は原敬暗殺には会津藩士の影がちらついているとまで述べています。

むしろ戦前は白虎隊はファシズムの宣伝に使われており、ファシストの首領の一人・イタリアのムッソリーニ首相やナチス・ドイツが白虎隊を賞賛するモニュメントを会津の飯盛山に建立しています。 反ファシズム闘争を云々する人たちが、この会津飯盛山のムッソリーニやナチス記念碑について不問に付しているのは一体どういうことなのでしょうか。

8,今の安倍政権は薩長政権だと原田伊織氏は断言していますが本当ですか?

安倍晋三総理大臣(先祖は長州藩士で吉田松陰に兵法を授けた佐藤信寛)が長州出身ですが、 薩摩出身者は閣僚・党三役まで含めてもゼロなので、なんでそういうのかよく分かりません。長州と薩摩の出身者が少なくとも内閣の殆どを占めていないと薩長政権とは言えそうもないと思います。

9,「攘夷」「維新」「国体」「志士」などの言葉は水戸学や長州テロリストの創作なのですか
これは、単純な誤りです。全て中国古代の漢籍に出典があります。

攘夷…『春秋公羊伝』僖公桓公救中國,而攘夷狄」(中国春秋時代の斉の桓公は中国を救い、夷狄を攘(う)ちはらった)

維新…『詩経』大雅「
周雖舊邦,其命維新。」(周は古い国家ではあるが、天命はいつまでも新しく、これからも栄えていく[諸橋轍次訳])

国体(
國體)…『三国志』文帝紀の裴松之注に引く『魏書』「文帝…其於聰明,通達國體」(魏の文帝曹丕[そうひ]は聡明な名君で、国の状況がよく分かっていた)

志士…『論語』・『孟子』など。朱熹は論語集注において「志士とは志がある士(下級貴族)のことである」と述べている。
 例えば、『三国志』・『文選』に載せる陸機『弁亡論』では、「是以忠臣競盡其謨,志士咸得肆力」(呉の孫策・孫権は優秀な人材を抜擢したので、忠臣は智謀を競い、志士もみな力を尽くした)とある。
 
謨は文選李善注によれば謀に同じ。いわゆる三国志の「軍師・名士」たちを「忠臣」と呼び、志士はこの文章の前半に「甘寧・凌統・程普・賀齊・朱桓・朱然の徒はその威を奮い、韓当・潘璋・黄蓋・蔣欽・周泰の属は其の力を宣べる。」とあるので、甘寧などの、呉の武将のことを「志士」と言ったのであろう。

いずれにせよ、江戸時代の武士であれば必ず読んでいたはずの四書五経や三国志が元ネタです。
10,教科書会社と原田伊織氏は関係がありますか?

実教出版という左派系の教科書会社があり、原田伊織氏を招いて話を聞いています。

地歴・公民資料81号(〈座談会〉「明治維新」の実相と歴史教育の課題を考える) 原田伊織・大庭邦彦

話の内容は、原田伊織氏の史観を聞き、教科書編集に役立てようというものらしいです。一つ、気になるのはこの出版社の人は史料と歴史小説を混同しているようで、原田伊織氏にも肯定的なのです。
このままでは原田伊織氏のサムライエッセーは史実として教科書に乗ってしまいかねないと思います。

「 幕末維新期を学習する際,「封建的な江戸幕府を倒した新政府が明治維新を成し遂げ,急速な近代化を進めて欧米列強の植民地化を免れた」という単純な図式で理解していないか。今回,『明治維新という過ち』(毎日ワンズ,2015 年)で問題提起をされた原田伊織氏と,幕末維新政治史研究も専門とされる大庭邦彦氏に,幕末維新の実像に迫っていただいた。

今回の座談会で,次の歴史を読み直す必要性を感じる。
1)小御所会議以降,徳川側の先見性ある挽回があったこと。それでは困る岩倉・西郷・大久保らが武力的反撃で強引に倒幕は進んだ。
2)奇兵隊はじめ,戊辰東北戦争(会津藩救済だけが目的)の際に「官軍」がどのような非道な態度をとったのか。

なお,安部龍太郎『維新の肖像』(潮出版社,2015年)では,長州藩が会津藩を徹底的につぶそうとし
た理由として,会津藩の松平容保(京都守護職)の信頼厚かった孝明天皇(公武合体を推進)を排除す
ること,イギリスとの密約(坂本龍馬はグラバー商会に頼まれてイギリスの「薩長同盟」支持を伝えた
だけ)があったことに触れている。」(前掲リンクより、丸付き数字は1)などに変更)

実教出版は、色々ある教科書会社の中でも左派色の強い記述で知られ、 「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保護するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という記述が東京都や大阪府の教育委員会で問題になった経緯があります。

私の個人的な意見を述べますと、左派、右派の教科書が別にあっても問題はないと思いますが、史実を捻じ曲げるのは困るなあと思います。 

水戸黄門は快楽殺人者で人間のクズってそりゃ言いすぎだよ 続「サムライ・エッセー」シリーズ・『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所

疲れきった仕事からの帰り道、書店で歴史書コーナーに行くのが僕の楽しみである。
ところが、この所どういうわけか行きつけの書店が

トンデモな真実の歴史に目覚めてしまった

らしく、 『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』などの原田伊織の「サムライ・エッセー」シリーズだの、フルベッキ写真だの大室天皇だの江戸しぐさだの、明智の子孫だのをやたらに歴史書コーナーに置きだして

「これが隠された歴史の真実」 

とやりだしてしまったんですね。まあそれで手に取った「サムライ・エッセー」シリーズの内容の強烈なこと強烈なこと。私、本当に精神値が削られてかなり辛かったね。(なお、サムライエッセーというのは原田伊織氏の公式ホームページで名乗っている名前である。)

「水戸黄門は人間のクズ」「水戸学はテロ思想」「郷土の偉人はテロ思想の神様」って、その言い方はないでしょう

なにしろ、『明治維新という過ち』第四章「テロを正当化した水戸学の狂気」は要約するとこんなんである。

「お前のふるさとの街を作った人間(徳川光圀)は人を斬ることに快感を覚えていたおかしい人間で、水戸学の書『大日本史』に藩のカネの三分の一をつぎこんだ人間のクズだ!いいことを何もしていない!」

水戸光圀は快楽殺人者で頻繁に試し切りをし、部下を公衆の面前で手打ちにしたりしていた。
江戸時代の武士が人をめったに切らなかったのにこいつは頭がおかしい人間だ!

「お前のふるさと水戸藩は愚劣という言葉もないほど愚劣などうしようもない所だ!」
「お前のふるさとの思想・水戸学はイスラム国と一緒だ!おかげでテロリストが出てきたじゃねえか!昭和維新とか言ってテロをやっていた橘孝三郎だの井上日召も水戸じゃねえか」
お前の郷土の偉人・藤田東湖は長州テロリストの神様!
「お前の先祖の主君は代々ろくでもない人間で、無差別殺人犯(光圀)だのキチガイの息子の嫁を襲って自殺させたセクハラ野郎(烈公)だのばかりだ!

しまいにはクズのドラ息子(一橋慶喜)が戦争から逃げ出して、家をつぶしてテロリストに殺人・暴行・略奪・放火などやりたいほうだいされた!
」 

そんなことばっかりめちゃめちゃに書いているんですぜ。幾らなんでもひどすぎやしませんか。
そういえば立花隆氏の親戚のおじさんの橘孝三郎氏の影響を受けただけで群馬生まれの井上日召まで水戸扱いになってるのもすごいね(水戸育ちの立花隆氏はけなさないのも謎だが)。

 私はいわゆるチバラキの住民で新横綱・稀勢の里の故郷、茨城県牛久市で青春時代を過ごしたのである。そして先祖の一族は一橋慶喜公に仕えて尊攘派に討たれている。そして水戸納豆は毎日食べている。今日も食べた。

そういう人間が「茨城憎し!水戸憎し!」の『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』『大西郷という虚像』などの原田伊織の「サムライ・エッセー」シリーズを読んだのだからたまらない。率直にひどいと思いましたね。

あんまりだ。水戸や茨城県がそんなに憎いのか。原田伊織の「サムライ・エッセー」というのはそういう点で余りにもひどいものである。そして、それが史実に基づいていればまだガマンもできようが、以下に書くように根拠が怪しい話ばかりなので、幾らなんでも誹謗中傷がすぎるんじゃないかと思うんですよね。本当に茨城や水戸に謝ってほしい。 

まず、この本は群馬出身者を水戸扱いするなどずさんなのだが、もっともらしく書かれている内容がほとんど裏とりすると怪しいのである。

1,徳川光圀が藩の財政の三分の一を水戸学につぎ込んだという話
これは戦前の徳富蘇峰が講演で言い出したことのようだが、かなり怪しい。水戸藩の財政はかなり苦しく、『藩史事典』でもこの頃から紙の専売制をやったり光圀が藩政に苦労した話を載せている。そもそもそんなにカネがかかるのか?

2,徳川光圀快楽殺人者説
これも怪しい。よくコンビニ本にその手のライターの妄想が書いてあるがそこら辺から持ってきたのだろうか。

そもそも前提条件の「江戸時代の武士はあまり人を切らなかった」という話が怪しい。光圀の江戸初期は平気で人を切っている。例えば肥前鍋島藩の二代藩主・鍋島勝茂は父の藩祖・鍋島直茂から「お前、人斬りの練習をやれ。大手門の前に下手人が十人いるから斬ってこい」と言われて九人斬ったという(『葉隠』)。

そもそも徳川光圀が頻繁に試し切りをした話はとんでもない誤解である。井上玄桐『玄桐筆記』によると、一回だけ夜中に同行者(名前を伏せているが光圀に無理やり命令しているところから見て相当高位の人だろう。家光?)に命令されて斬ってやめてしまったという。問答を意訳すると、
ある人「お前、人斬れよ。試し切りも出来ねえのかよ、本当に臆病だな」
光圀「そんなこと言われても罪のない人を斬るなんてひどい話じゃないですか、僕はやりませんよ」ある人「何言ってやがる。テメエが腰抜けで人間のクズだから人も斬れねえんだろうが!斬ってこいやオラッ!」
光圀「……そこまで言われるのでしたらもう仕方ないです、斬ります」
と言って非人が4,5人その辺に寝ていたのを「すまないが人を斬れと言われたので申し訳ない、本当に前世が悪かったと諦めてくれ」と一人斬ったが、非人たちから「あまりにもひどすぎる」と抗議されて「こんな人斬り好きな人とは思わなかった。もう二度とお供はしないようにしよう」と思い、その後二度とその人(多分、三代将軍家光)とは一緒に歩かなかったという。これで光圀が快楽殺人者にされるのではアンマリというものだ。

たしかに現代の目から見れば光圀はひどい。しかし、この頃の将軍だの大名だのは平気で人を殺しているのである。光圀はむしろそれを拒絶し、否定する側の人だったようである。

3,徳川斉昭がセクハラ野郎だったという話

原田伊織氏は確定した史実のように「長男の嫁に手を出しそれが元で彼女は自殺している、斉昭の淫乱ぶりがうかがい知れよう」※1と断言しているが、これは元々三田村鳶魚が勝手にそう思い込んだだけの話である。史料はない。

※1『明治維新という過ち』第四章「テロを正当化した水戸学の狂気」より要約

長男の徳川慶篤の嫁さん・線姫(いとひめ)が22歳で急死したのを疑って、「これは斉昭がスケベだからなにかあったんだろう、自殺したんだろう」と著書『大名生活の内秘』で書いたのである。三田村鳶魚は江戸時代の男女関係については直ぐに芸能ゴシップのようなことを書く人であまり信用できないし、鳶魚は徳川斉昭を嫌っている人なのでどうも信頼できない。

原田伊織氏は鳶魚の本を見ていないはずで(参考文献にない)、どこかで誇張された話を又聞きしたのではないか。なお、山川菊栄は線姫の死因を、お局様からのイジメを苦にした自殺ではないかとしている。斉昭関係ないじゃないか。 

「現場の空気を感じれば歴史事実が浮かぶんだ!」原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所

原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』(毎日ワンズ)という本を読んだが、「いやちょっとこれはなんなのよ」という所が多すぎるように思う。随時更新します。(ツッコミどころ多すぎるんだよね)

○歴史家は史料を読まなくても良い!その場にたたずめば皮膚感覚で史実が分かる!
原田伊織端書
まず『明治維新という過ち』の端書きから。
「私は元々書き物だけが資料だとは思っていない。京都・八坂通りの夕靄の中に佇めば、会津藩士や新撰組隊士が腰をかがめて長州のテロリストを求めて疾駆する姿が眼前に浮かび上がるだろう。

(中略)歴史を皮膚感覚で理解するということはその場の空気を感じ取ることだ。
な、なんですか?

「歴史現場に行って空気を感じれば歴史が理解できる?!」

超能力者かな?FBI超能力捜査官かなにかかな?

なお、この本を出した後アマゾンレビューがプチ炎上したので、それに対する釈明を続書『官賊と幕臣たち』で書いているんですけどこれもすごい。

「近年、何かにつけて一次資料だ、二次資料だと、参考資料に関することを批判、反論の材料とすることが”流行っている”ようにみえるが、余り益のあることとは思われない。

一次だ、二次だというのは、学者の世界の論文でいうことであって、歴史書全般について同じ形式や要件を当てはめる必要は全くないと考えている。

何故なら、単純にいって読者の方々が読みにくいからである


いや、何か壮大な勘違いをしているようですが、史学で史料批判とか史料の等級分けをするようになったのは最近じゃないですよ。等級わけは明治時代、史料批判は江戸時代の前期水戸学(徳川光圀=水戸黄門あたり)からですから、全然、近年ではないです。

この原田伊織氏という方、水戸学を徹頭徹尾バカにして「水戸学は狂っている」「水戸藩は愚劣と言えないほど愚劣な藩」とちょっと異常な言葉でけなし倒しているんですけど、水戸学は近代史学に色々貢献しているのにそれを全く理解しないでメチャクチャな話をするのはあんまりです。しかもその理由が、

「読者が読みにくい」

はすごい。呉座勇一先生の『応仁の乱』が売れている現在、あまりにも読者をバカにしすぎているんではないですか?それから「皮膚感覚で歴史を感じる」一種の超能力の話はどこへ?

  2,参考文献は時代小説。 原田伊織
原田伊織1
参考文献に司馬遼太郎「街道をゆく」がずらり並ぶのにはたまげました。あれも一種の小説だよねえ。佐藤雅美の時代小説というのもすごい。 北大路欣也がテレビ朝日でやっていた『八州廻り桑山十兵衛』の原作者ですよ?時代小説に出てきたことが全て史実と思っているのかな?

そもそも川路聖謨(かわじとしあきら)って膨大な日記を残した人なんですよ。平凡社から活字化されて東洋文庫として出ている。小栗上野介も蜷川新の史書や『小栗忠順のすべて』(新人物往来社刊)という入手しやすい史書が複数あるのになぜ時代小説を使うのか?

【クリスマス企画】「信長の野望・全国版」に登場する戦国大名は江戸時代何をしていたのか調べてみた

あんまりクリスマス感はないのだが、懐かしゲーム「信長の野望・全国版」に登場する戦国大名は江戸時代、何をしていたのか?をちょっと調べてみた。戦国大名が江戸時代何をしていたのかについては、歴史学的にも蒲生真紗雄先生・小川恭一先生などの調査・研究があり、参考にさせていただいた。

まず、調査結果から。
 
国番号 国名 大名名 江戸時代
1国 蝦夷 蠣崎慶広 蝦夷・松前藩主
02国 陸奥 津軽為信 陸奥・津軽藩主
03国 陸中盛岡 南部晴政 陸奥・南部藩主
04国 陸中岩崎 葛西晴信
05国 羽後 秋田愛季 陸奥・三春藩主
06国 陸前 伊達輝宗 陸奥・仙台藩主
07国 羽前 最上義守 出羽山形藩主→近江・大森領主
08国 磐城 結城晴朝 越前・越前藩主
09国 岩代 葦名盛氏 出羽・角館領主家は無嗣断絶、支流が仙台藩士
10国 越後上野 上杉謙信 出羽・米沢藩主
11国 常陸 佐竹義重 出羽・久保田藩主
12国 下野 宇都宮広綱 水戸藩家老
13国 安房 里見義堯 旗本(150俵)
14国 武蔵伊豆 北条氏政 河内・狭山藩主など
15国 甲斐信濃 武田信玄 大和・郡山藩主(支流)、高家
16国 能登 畠山義綱 旗本(高家・3120石)
17国 越中 神保氏張 旗本
18国 飛騨 姉小路自綱 旗本(御書院番士・700石)、大阪夏の陣で奮戦
19国 木曽福島 木曽義昌 下総阿知戸藩主家は不行跡で断絶、女婿は木曽代官(7500石)として存続
20国 遠江駿河 今川義元 高家
21国 加賀 本願寺光佐 准門跡(十万石格)
22国 越前 朝倉義景 遠江掛川藩主→旗本
23国 美濃 斎藤義竜 旗本(勘定奉行・1000石)、義龍の弟の系統
24国 三河 徳川家康 徳川将軍家
25国 尾張 織田信長 出羽・天童藩主など
26国 伊勢志摩 北畠具教 旗本(小普請奉行・1100石)、具教の大叔父の系統
27国 近江 浅井長政 旗本(500石)
28国 伊賀 六角義賢 嫡流は高家だったが改易、支流は筑前藩・丹後藩など
29国 丹後若狭 一色義道 嫡流は断絶、支流が常陸土浦藩主
30国 丹波 波多野秀治 肥前藩士
31国 山城 足利義昭 下野・喜連川藩主
32国 大和 筒井順慶 旗本(江戸町奉行・1000石)
33国 摂津和泉 三好長慶 長慶の大叔父の系統は旗本(2,020石)、叔父の女系は出羽亀田藩主
34国 紀伊 堀内氏善 旗本
34国 紀伊 雑賀孫市 旗本→水戸藩士
35国 因幡但馬 山名豊国 但馬村岡藩主
36国 播磨 別所長治 伯耆八木藩主→旗本
37国 出雲伯耆 尼子晴久 長州藩士
38国 三備 宇喜多直家 八丈流人
39国 安芸長門 毛利元就 長州藩主
40国 讃岐 十河存保
41国 阿波 細川真之 別流が肥後熊本藩主
42国 伊予 河野通宣 支流が伊予小松藩主など
43国 土佐 長宗我部元親 酒井藩家老
44国 土佐中村 一条兼定 公家→明治神宮宮司
45国 豊前 城井鎮房
46国 筑肥 竜造寺隆信 肥前佐賀藩主
47国 豊後 大友宗麟 支流が筑後柳川藩主
48国 肥後 阿蘇惟将 阿蘇大宮司家
49国 日向 伊東義祐 日向飫肥藩主
50国 薩摩大隅 島津貴久 薩摩藩主

参考文献は蒲生真紗雄先生の新人物往来社「戦国大名諸家譜」所載論考・小川恭一先生『江戸の旗本事典』(講談社文庫・角川ソフィア文庫)などである。以下、個別に解説していこう。

まず、戦国大名がそのまま江戸時代の藩主になっているケースは、統一が遅れた東北と九州で多い。これは蒲生先生も指摘していることで、中央政権とよほど揉めない限り旧来の権力を維持できたのである。東北は葛西晴信以外全員江戸時代の藩主・領主・藩士として存続、九州も城井鎮房以外は全て何らかの形で支配者層として残ることが出来た。

これが中央に行くと話が違ってくる。まず本州中央部(中部・東海・近畿)の戦国大名で戦国大名がそのまま藩主として残れたのは、ほとんど居ない。旧領地で残れたのは徳川将軍家を除けば木曽家だけである(しかも支流)。

甲斐武田家が元禄時代に支流の柳沢家が甲府藩主に返り咲きを果たしたのが数少ない復活事例だろう(すぐ転封されたが)。前政権の子孫として、小藩でありながらも国主格として厚遇された織田家ですら、尾張への復帰はならなかった。

中央の戦国大名で多いのは、一旦滅亡した後、江戸幕府に再就職して奮闘し、高家・奉行クラスの地位を手にしている「サラリーマン武士」たちである。元会社社長の息子がリーマン稼業をやっているようなものだ。

畠山・今川・六角が高家、斎藤・北畠・筒井が奉行である。姉小路も御書院番士として大阪夏の陣で奮戦、なんとか家名を保った。

もっともこれとても、六角家のように不行跡で改易されている家もあるので、一概に安定していたとも言えない。出世競争は熾烈であり、江戸幕府もそれなりに能力社会なので、無能では奉行などにはなれなかった。斎藤家の子孫・松波政春が徳川吉宗の「元文の改鋳」に関わり、筒井政憲は名奉行として有名であった(政敵に図られて失脚していたこともある)。藩がつぶれて再就職した後も、生存競争を勝ち抜かねばならなかったのである。そんなに収入も高くないので、今のビジネスマンたちのように勤めが終わった後、赤ちょうちんやおでん屋で「なんだあの野郎コンチクショー」などとオダをあげていたような人たちである。それなりに結果も出しているのだが…なんというか、日本型サラリーマンの元祖みたいな人たちだ。

この他、地方の藩の家老クラスで再就職しているのが宇都宮・長宗我部など。幕臣たちより給料は良かった。

これ以外の再就職?としてちょっと面白いのが「僧侶・公家・神主」で、本願寺・一条・阿蘇のようにもともと武士ではなかった人々が、元の職業に復帰して江戸時代を過ごしているケースである。東西本願寺家は十万石の格式を与えられ、生き仏様として庶民から崇拝されたという。一説には百万石の収入があったと言うが本当ですかね。

もっとも再就職できた人はマシである。行方不明になってしまっている人も何人かいるのだ。葛西、十河、城井の三家はどうなったか良くわからない。 

徳川将軍家は「王」だった?!ー徳川将軍家に贈られていた漢風諡号の謎~

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[猷王(ゆうおう)・徳川家光の廟『大猷院廟』(たいゆういんびょう) 栃木県日光市、国宝及び世界遺産指定。
画像はウィキペディアのフリー画像を使用]

これが『烈祖成績』・『三王外記』・『続三王外記』・『文恭公実録』が書いている徳川将軍家の贈り名の唐名。

1、烈祖(神祖)・家康
2、徳王・秀忠
3、猷王(ゆうおう)・家光
4、荘王・家綱
5、憲王・綱吉
6、文王・家宣
7、章王・家継
8、徳王・吉宗
9、惇王・家重
10、浚王・家治

一見、なんというか「十二国記」か中国周王朝の王号みたいですが、これなんと徳川将軍の王号。
「台徳院」「大猷院」などの朝廷から贈られた諡号(シゴウ、贈り名)を中国風に呼んだものです。
漢学者が漢文で史書を書く時に好んで使っていたようです。
『烈祖成績』・『三王外記』・『続三王外記』・『文恭公実録』はいずれも漢学者が書いた私撰(自分で書いたもの)の書で、非公式な内容なのでこういうことが書けたのかもしれません。『三王外記』は太宰春台の作ではないかと言われており(非公式なアングラ出版で「訊洋子」(じんようし)というペンネームを使っている)、それを書き継いだ『続三王外記』・『文恭公実録』も同様です。(『文恭公実録』だけは著者が明治政府に出仕しているので著者が明らかになっている)。

家康の諡号が「烈祖」なのが意外というお話があり、正直私も意外と言えば意外なんですけど、そう言えば徳川斉昭の諡号も「烈公」なんですよ。徳川家は「烈」って言う字が好きなんじゃないかな。 

なお、この漢風諡号に王を使うのは家治までで、「徳川将軍は諸侯なのになんで王なんだ!不敬だ!」という国学者からの批判もあり、11代将軍、文恭院・徳川家斉は没後「文恭公」と呼ばれています(五弓久文『文恭公実録』序)。諡号が朝廷から贈られるのも14代までで、15代慶喜にはありません(神式葬儀だったため戒名もない)。


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