群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

江戸時代

闇を斬る!大江戸犯科帳と史実(と大河ドラマ関係人物)

今CS時代劇専門チャンネルでやっているところの「闇を斬る!大江戸犯科帳」について、多少史実の時代劇とのすり合わせを備忘録的に書いておく。史実ではもっと濃いメンツが居たのになぜかそれらが全く出てこない微妙な時代劇である。

まず、この時代劇は徳川家斉の文化・文政年間にあったことになっている。ストーリーは、
幕末に近い文化・文政時代。長い権力の座と金権政治に慣れすぎた幕府の要人たちは、金満家たちと結託して、法の網をくぐって悪事を重ねていた。そんな悪に対して旗本三千石の大目付・一色由良之助(里見浩太朗)が闇奉行と称して立ち上がった。そんな一色に対して北町奉行・小笠原能登守泰久(西郷輝彦)は、法を守る町奉行の立場から闇奉行の存在を表向きには認めないが、いざ事件となれば影では一色を助け、二人は江戸に巣食う法で裁けぬ悪漢たちに立ち向かっていく!(http://www.jidaigeki.com/program/detail/jd00000242.html
というものである。
大変残念ながら、この時代劇の人物は主要人物は全て架空である。

里見浩太朗演じる主人公の大目付・一色由良之助だが、文政武鑑に

一色などという大目付は存在しない。 
この頃の大目付は朝比奈河内守など5名である。
更に言えば、町奉行にも小笠原能登守泰久なる人物は存在しない。

余談ながら、この頃の幕閣は大河ドラマクラスタ的には思わず吹いてしまうような布陣になっているので、以下に追記したい。
まず、御留守居役だが、
「黙れ小童ぁああ!!」(憤怒)
muroga

あの、真田丸でお馴染みの室賀正武の子孫・室賀山城守政頼である。

文政武鑑(室賀)

(国立国会図書館デジタルコレクション「文政武鑑」より)

その同僚が柳生十兵衛の子孫の柳生久通と、ゲヒ殿こと古田織部の子孫の中川飛騨守というのは、
どういう配列なんでしょうか。 老中は本多平八郎忠籌(ただかず)。本多忠勝の8代目の子孫。
大名火消は黒田甲斐守(下の名前未詳)。黒田官兵衛の子孫の誰かだと思う。 
 

三牧藩主は祇園で美女78人に乱暴して取り潰されたのか?

ウィキペディアに荒らしユーザーが江戸時代の嘘くさい話を大量に投稿していることは既に述べた。
これもまた、その話である。
荒らしユーザーのシェーラ(変名でドルチェット)氏が投稿した「稲葉道重」と「津田信成」についての項目には以下の様な話が書いてある。

   慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、本戦では西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。そのため戦後は所領を安堵され、御牧藩主となる。ところが慶長12年(1607年)、美濃清水藩主の稲葉通重と共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋の女房をはじめとする美女78名に乱暴狼藉を働いた経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易された。一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%88%90

これは、「名刀幻想事典」というブログをパクって書いたのだが、実は「名刀幻想事典」も資料を誤読したものと思われる。(なお、ウィキペディアで個人のブログを元ネタに記事を書くこと事態が禁止されているのだが、荒らしユーザーはそういうことを平気で無視するのである)

津田信成は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原では東軍に属したことから本領安堵され、初代御牧藩主となっている。しかし慶長12年(1607年)に稲葉通重らと京都祇園で遊んでいた際に茶屋の女房など78人に乱暴狼藉を働いたかどにより御牧藩は改易された。

(名刀幻想事典)http://meitou.info/index.php/%E5%BE%A1%E7%89%A7%E5%8B%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
   
そもそもこの三牧藩主・津田信成という人は、「藩史事典」(秋田書店)が指摘するように、津田元勝と事績が混同されている人であり、女性を誘拐した罪でお家断絶に成ったのは
津田元勝」である。

津田元勝のお家断絶事件については「徳川実紀・台德院殿御實紀卷六」にある話である。

◎この月 伏見にて御家人稲葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衛門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商、後藤幷びに茶屋等が婦女。祇園・北野邊(あたり)を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆(しゅし)にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縛り付け刀をぬき。「若(も)し聲立ば、伐てすてん」とおびやかし。黄昏に皆逃げ去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ(訴え)出ければ。かく命ぜられしとぞ。(慶長見聞書。)
(通釈)慶長12年12月、伏見在住の幕臣、稲葉甲斐守通重、津田長門守元勝、天野周防守雄光、阿部右京なにがし。矢部善七なにがし。澤半左衛門なにがし。岡田久六なにがし。大島雲八なにがし。野間猪之助なにがし。浮田才壽なにがし等は、全てお家断絶となりました。これは、以下の様な事件を起こしたためです。

稲葉たちは、京都の富豪である後藤家と茶屋家の女子が、京都の祇園や北野の当たりで物見遊山をしていたのを誘拐し、むりやり出合茶屋に連れ込んで酒を飲ませ、後藤家・茶屋家のお付の人々を木に縛り付けて「もし声を出せば切り捨てるぞ」と脅かし、夕刻に逃走したものです。出合茶屋の人間が訴えてきたので、このような処分を下しました。(これは「慶長見聞書」にある話です)

この原史料と見比べると、ウィキの記述は乱暴であるしメチャクチャである。
・改易された人物名の違い
・誘拐されたのは「祇園のお茶屋の女房」ではなく「豪商・茶屋家の女性」(茶屋次郎四郎を知らないのだろうか?)
・「美女78人」という謎の改変(人数は誰が言い出したのか。おまけに「美女」ってなんですか。)

どうもこうもなく支離滅裂である。 

史料解題「柳営婦女伝叢」(りゅうえいふじょでんそう)

柳営婦女伝叢は国立国会図書館デジタルコレクションで見られる、江戸幕府将軍の妻子の史料集である。
編者は三田村鳶魚で、
筆者不明「玉輿記」(ぎょくよき)
筆者不明「柳營婦女傳系」(りゅうえいふじょでんけい)
竹尾善筑「幕府祚胤傳」(ばくふそいんでん)
竹尾善筑「幕府釐女傳續編」(ばくふりじょでんぞくへん)
から成っている。 

「玉輿記」はかなり伝説というか伝奇色が濃く、隆慶一郎氏の伝奇小説「捨て童子松平忠輝」のタネ本の一つである。三田村氏も言うように、大奥の姫と若君に関する怪しい話をまとめた本で、 松平忠輝にしても「ウロコが生えていたので水泳が上手かった」などというのは全く言語道断なものである。両生類やかっぱでもあるまいし。
どうも服部一族が書いていたものらしいが、まともに取り合うべき本でもないであろう。

「柳營婦女傳系」は「玉輿記」よりもっともらしく書いてあるのだが、系図が関心しない。これによると後醍醐天皇の御子、信濃宮宗良親王の嫡男が臣籍降下して源尹良を名乗り、征夷大将軍に任じられた、これが松平清康の先祖である…というのだが、ちょっとどうなんでしょうね。 

ウィキペディアの江戸諸藩の記事は荒らしのでっちあげか。第二の「江戸しぐさ」か

驚くべきことだが、ウィキペディアに有る江戸時代の諸藩の記事は、なんと一人の荒らしユーザーがでっちあげていたようである。

いま、必要があり江戸時代の史料をひたすら読みなおしているのだが、ウィキペディアにだけ有る、謎の記述が多すぎるため、近江「水口藩」 などのところを資料を元に読みなおした所、なんと「シェーラ(デュオ・ドルチェット・吉野信夫などの多数の変名も使用)」という荒らしユーザーが史料もなしに立項した項目であった。唖然としている。彼の自己紹介はかくのごとし。
 歴史が全般的に好きです。202.224.95.2の時から戦国時代の武将をはじめ、多くの武将を新規投稿させていただきました。
 あらゆる視点から、史料を通して歴史を見ています。すでに戦国武将(三好長慶やその兄弟など)の多くや江戸藩主、藩などの投稿を行わせていただきました。史料とは面白いもので、それまで名将と言われている人物の裏の顔なども見えてきます(直江兼続、石田三成など)。
 私は元号に直したりするのが大変苦手で、いつも西欧世界の西暦で表しています。お手数ですが、もし日本の元号に直すのが得意な人がおられましたら、私の投稿したものを元号になおしていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
 202.224.95.188で投稿させていただくこともありますので、お願いします。
新規投稿(大久保長安事件、岡本大八事件、江戸時代の藩主、藩の記事(関宿、淀など)等等)。
現在は江戸時代の藩主(田沼氏、本多氏、井上氏など)、戦国時代の武将(吉川之経らマイナーな武将たち)を投稿しています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9

 
年号も読めないような人間が歴史学の百科事典を書きなぐるとはまことに世も末である。ところがこの人物、
立項だけはものすごい量をこなしており、シェーラ名義で約900件、 デュオ名義でも約200件、ドルチェット名義でも多数の記事を書きまくり、その中に大量のウソか本当かわからない話をぶちこんでしまったようである。実は彼の荒らし投稿は中国史にも及んでおり、駒田信二の小説「新十八史略」を出典に記事を書いており頭が痛い。

彼の歴史知識は、なんと時代小説や「信長の野望」の攻略本(!)から由来しており、荒らしを指摘されると、
なんと小説由来の話を大部の歴史事典を出典として書き始めるようになっており、
隆慶一郎の「影武者徳川家康」の話を平然と出典を偽って書いているのである。

以前、私はこう指摘した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%85%B8%E3%81%8C%E6%8F%90%E7%A4%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%82%92%E5%A4%A7%E9%87%8F%E3%81%AB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6)

『慶長年中卜斎記』:板坂卜斎『慶長年中卜斎記』我自刊我本、明治15、近代デジタルライブラリー所収。他、異本に
早稲田大学蔵本の江戸享和3年の土井利伏の写本『慶長年中記』などがある。
「北越軍談」:
『名将言行録』:
『老人雑話』:
いずれも隆慶一郎の伝奇小説影武者徳川家康や、それに類するものからの孫引きと思われます。関ヶ原の戦いで引用されている『慶長年中卜斎記』の文章を原史料と比較すると、史料からの引用に比べ、漢字がかなにひらかれ(例、莞爾々々→にこにこ)、写本『慶長年中記』と『慶長年中卜斎記』とを足して2で割ったような記述にされておりました。尚、同著は伝奇小説という小説の形式上、原史料とは異なる描写がされていることが往々にしてありますので、ウィキペディアの出典として用いるのには全く不適切です。

伝奇小説では虚偽史料を用いてもっともらしくする手法がよく用いられており(例を上げれば周大荒『反三国志演義』が発見したと称する『三国旧志』、半村良『産霊山秘録』に登場する複数の虚偽史料など)、

影武者徳川家康が引用する史料もこの類で、『徳川実記』に出てこない話が『徳川実記』よりとして普通に出てきたりします。なお、出典を世界逸話大辞典と称しているものにも、影武者徳川家康からの話があるようです(藤堂高虎、徳川秀忠で確認)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9

当然ながら良心的な利用者から憤怒の声が上がり、史料を読んで下さい、あなたの出典は何ですかと何度も何度も炎上したが、彼は一度は謝ったりもしたが、結局それを無視して、アカウントを消される度に別名義で同じような記事を量産しているのである。くれぐれもウィキの記事を元に江戸諸藩を理解しないでいただきたい。
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