群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

webディレクター兼雑誌記者の松平俊介が書いているブログです。

web技術者・web記者の松平俊介の江戸時代とweb技術についての雑記ブログです。web技術者の傍ら、雑誌記者として各種月刊誌・webメディア『ガジェット通信』に執筆してきました。 webの時事問題や、web制作、ウェブマーケティング、江戸時代史や『江戸しぐさ』批判などが主な執筆範囲。 これまで書いてきた主な記事→http://rensai.jp/author/touryuuuan

トンデモ本

「現場の空気を感じれば歴史事実が浮かぶんだ!」原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』の謎な箇所

原田伊織『明治維新という過ち』『官賊と幕臣たち』(毎日ワンズ)という本を読んだが、「いやちょっとこれはなんなのよ」という所が多すぎるように思う。随時更新します。(ツッコミどころ多すぎるんだよね)

○歴史家は史料を読まなくても良い!その場にたたずめば皮膚感覚で史実が分かる!
原田伊織端書
まず『明治維新という過ち』の端書きから。
「私は元々書き物だけが資料だとは思っていない。京都・八坂通りの夕靄の中に佇めば、会津藩士や新撰組隊士が腰をかがめて長州のテロリストを求めて疾駆する姿が眼前に浮かび上がるだろう。

(中略)歴史を皮膚感覚で理解するということはその場の空気を感じ取ることだ。
な、なんですか?

「歴史現場に行って空気を感じれば歴史が理解できる?!」

超能力者かな?FBI超能力捜査官かなにかかな?

なお、この本を出した後アマゾンレビューがプチ炎上したので、それに対する釈明を続書『官賊と幕臣たち』で書いているんですけどこれもすごい。

「近年、何かにつけて一次資料だ、二次資料だと、参考資料に関することを批判、反論の材料とすることが”流行っている”ようにみえるが、余り益のあることとは思われない。

一次だ、二次だというのは、学者の世界の論文でいうことであって、歴史書全般について同じ形式や要件を当てはめる必要は全くないと考えている。

何故なら、単純にいって読者の方々が読みにくいからである


いや、何か壮大な勘違いをしているようですが、史学で史料批判とか史料の等級分けをするようになったのは最近じゃないですよ。等級わけは明治時代、史料批判は江戸時代の前期水戸学(徳川光圀=水戸黄門あたり)からですから、全然、近年ではないです。

この原田伊織氏という方、水戸学を徹頭徹尾バカにして「水戸学は狂っている」「水戸藩は愚劣と言えないほど愚劣な藩」とちょっと異常な言葉でけなし倒しているんですけど、水戸学は近代史学に色々貢献しているのにそれを全く理解しないでメチャクチャな話をするのはあんまりです。しかもその理由が、

「読者が読みにくい」

はすごい。呉座勇一先生の『応仁の乱』が売れている現在、あまりにも読者をバカにしすぎているんではないですか?それから「皮膚感覚で歴史を感じる」一種の超能力の話はどこへ?

  2,参考文献は時代小説。 原田伊織
原田伊織1
参考文献に司馬遼太郎「街道をゆく」がずらり並ぶのにはたまげました。あれも一種の小説だよねえ。佐藤雅美の時代小説というのもすごい。 北大路欣也がテレビ朝日でやっていた『八州廻り桑山十兵衛』の原作者ですよ?時代小説に出てきたことが全て史実と思っているのかな?

そもそも川路聖謨(かわじとしあきら)って膨大な日記を残した人なんですよ。平凡社から活字化されて東洋文庫として出ている。小栗上野介も蜷川新の史書や『小栗忠順のすべて』(新人物往来社刊)という入手しやすい史書が複数あるのになぜ時代小説を使うのか?

無責任な医療情報が大量生産されるカラクリ…「コンテンツファーム」

BuzzFeed Newsの井指啓吾記者の力作記事「その記事、信頼できますか? 無責任な医療情報、大量生産の闇 水素水、ブラックシード…」(https://www.buzzfeed.com/keigoisashi/welq-01?utm_term=.qhZNnePMJb#.plpGlMp4WP)  を読んで、私はうーんと考え込んでしまった。

webディレクターを長年やってきた僕としては、非常に憂慮すべき事態になっているし、それまでこの問題に気づいていながら何の手も打っていない自らの無力にも思い至ったのである。

この問題について
井指記者にTwitterで若干の情報提供をしたところ喜んでいただいたようだったので、業界人としてこの問題について書いておこうと思う。少しでもこのような無責任な医療情報が減ることを望みたい。

この無責任な医療情報を量産しているのは、主に「アフィリエイター」と言われる人たちではないかと思うが、この手の手法は私が記憶する限り二〇〇九年頃には既にあったと思う。当時、SEO対策の中に「ワードサラダ」「コンテンツファーム」などの手法が有り、特に今回問題になっている無責任な医療情報は
「コンテンツファーム」の一種と言っていいと思う。

「コンテンツファーム」は、要するにインチキSEOである。業界用語でブラックハットSEOともいう。
「質の低い記事を大量生産することで、アクセスを稼ぎ、何かの目的を達成しようとするもの」なのである。もちろん、検索エンジンから見ればご法度の行為で、Googleは何度もその手のサイトを検索順位の圏外に押し出しているのだが、手を変え品を変えしてアフィリエイターはコンテンツファームをやっている。


既に2011年には、Googleがこの問題に対して警告を発している。SEOの専門家として名高い「海外SEO情報ブログ」の鈴木謙一氏によると、コンテンツファームには以下のような種類があるという。(https://www.suzukikenichi.com/blog/what-is-content-farm/より引用)

  • スクレイピング
    他のサイトからコンテンツをコピーしてページを自動生成したコンテンツ
  • 自動生成したコンテンツ
    完全に自動化されたものもあるし、多少人の手が加えられたものもあります。
  • 信ぴょう性が担保されていない投稿サイト
    一般人のユーザー同士が助けあうQ&Aサイトは、素人が回答する場合も多いです。
  • 既存のコンテンツを書き直したコンテンツ
    単語を変えたり語順を入れ替えたり、でも言ってることは同じ。
  • 宣伝のためのコンテンツ
    見返りに報酬をもらうために書く、商品やサービスのレビュー記事。
  • ウィキ
    百科事典タイプのコンテンツ
こういったコンテンツファームについては、Google側も対策を打ち、検索エンジンのアルゴリズムを何度も何度も変更し、少なくとも自動生成やコピペコンテンツについては相当な対策がなされている。ところが、問題は「既存のコンテンツの書き直し」である。これは現在の検索エンジンのアルゴリズムでは検出はなかなかできない。だから、無責任な医療情報のコンテンツファームがはびこってしまうのだ。

こういうサイトの多くは、連絡先すら明らかにしていない。独自ドメインを取り、お問い合わせ窓口を作らなければ、事実上抗議も何も出来ないようなサイトを作れるからである。ドメイン業者がそういうサイトについて取り組みをしたという話も私はあまり聞いたことが無い(本来はドメイン業者が対処すべきだと思うが)。どうして未だにこのようなアングラサイトみたいなことがまかり通るのだろうか?

こういうことばかりやっていると、ウェブ業界はますます信頼を失い、若い人が入ってこなくなり、ブラック業界になってしまうように思う。なんとかしなければならない。

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

八切止夫氏は異端の歴史作家と言われ、新左翼運動にかなりの影響力を持ったとされる。若いころの文章はともかく、晩年のその主張ははっきり言えば「電波」の一言に尽きる。江戸しぐさの江戸っ子大虐殺レベルの主張を「真の歴史」と吹聴し、それを信じこむひとが多いのは困ったことである。

 今更、随分前に亡くなられた方の説を批判するのも気が引けるが、こういう電波を信じこむ野党の政治家が出てきているのだから、批判せざるを得ない。

このような偽史については、既に原田実先生や佐々木俊尚氏の論考で批判されているが、まだまだ偽史を街頭演説した人間に23万票も入ってしまうのだから、地道に批判していくしかあるまい。

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

 http://www.rekishi.info/library/yagiri/より
「純正日本史案内」 

なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。
八切氏はこの「藤原鎌足中国人」説を長年主張され、信者も多く、「郭ムソウ」でググるとこの節の信奉者がバカンバカン出てきて頭が痛くなるが、なにか八切氏は根本的に誤解されているようである。そもそも「唐の大宝律令」なんぞというものはない。大宝律令は日本製である。

 
郭務悰(ムソウ)という人物も、八切氏が思っているほど大物ではないのである。大化の改新の後に来朝した唐の木っ端役人、田舎の副市長のお付きに過ぎない。大和朝廷もまともに扱っていない。
郭務悰 かく-むそう ?-? 唐(中国)の官吏。 白村江(はくそんこう)の戦いの戦後処理のため,唐の百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅう-じんがん)の命で天智(てんじ)天皇3年(664)来日。朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国,翌年唐使劉徳高とともに来日。さらに10年百済の難民二千余人をひきいて来日したが,翌年筑紫(つくし)で天智天皇の死を知らされ帰国した。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)ってそれ以前に日本に居たんだよなあ。なにしろこの郭ムソウさんが来たのは大化の改新の後なのである。郭ムソウさん、柱国という一見凄そうな肩書を持っているのだが、唐代の柱国というのは単なる勲章である。官位も従五品下・朝散大夫と低く、大和朝廷からも「なんだこの使い走り」だと思われていた人である。どう考えても藤原鎌足になれそうもない。

しかし八切さん、「武鑑」を読んでいた割に「朝散大夫」というのが大した官位でないことが分からないんですかね。日本の江戸時代の制度でも、朝散大夫というのは大名の最下級、従五位下の異名なのである。例えば浅野内匠頭も「朝散大夫」であった。

おまけに、郭ムソウさんは唐の正使・沂州(ぎしゅう)司馬の劉徳高(これがまた大した官位ではない。副市長程度の人である)の子分なのである。日本書紀では「劉徳高など」と、「ら様」扱いを受けてしまっている始末である。沂州というのも人口19万の田舎町で、水滸伝にモデルにされた人物が出てくる、王倫(おうりん)という小悪党の在所である。
沂州,中國古代設置的一個州,治所在今山東省臨沂市。北周改北徐州為沂州,因沂河而得名。治所在即丘縣(今山東省臨沂市東南)。唐朝將州治遷到臨沂縣。曾改名為琅邪郡。土貢:紫石、鍾乳。戸三萬三千五百一十。口十九萬五千七百三十七。北宋王倫在沂州起義。(https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B2%82%E5%B7%9E)

中臣鎌足はこの頃既に、内臣(後の内大臣…内閣総理大臣代理)なんだよね。

田舎の副市長の随員程度の郭ムソウさんが、今で言えばバリバリ働いている副総理と入れ替わりになってしまうようなものだ。ありえないことである。

藤原氏も何もあったものではない。そもそも中臣鎌足は「白村江の戦いで勝てなくて申し訳ありませんでした」と死ぬ間際に天智天皇にお詫びしたような人である。唐の人であろうはずがない。

現代中国語を駆使する唐の人!


八切氏はこうもいうのだが、どうも八切氏の頭のなかの中国は唐も満洲国もゴチャゴチャなようである。(八切氏は戦時中の満洲にいた)
唐風にすべてが変り、「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、 「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽 生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。…(中略)…「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」  などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
それ、満洲国の話ですよね?

その持ち歩いていた書きつけ、中国語早覚えの急就篇(きゅうしゅうへん…今で言えば「旅の指差し会話帳」のようなもの)じゃないですかそれ…

そもそも、唐代の人がなんで現代中国語でしゃべるんですか…
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモ ッグ公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知れぬ。
藤原氏の名乗りは中臣鎌足が住んでいた高市郡藤原からですよ。

しかし、都合のいい時だけ漢音で漢字を読むんですね八切さん。唐の人は現代中国語で話していたのではなかったのですか?!

それからスモッグ公害、唐でも無いと思いますよ…

出た!八切止夫十八番のコジツケ!
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。

なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。

「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人頭」というのもあって、「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
ここでいう、「といち」とは近世の俗語で、「上」の字を分割して「ト一」としたものだと辞書『大辞泉』にはある。
唐は関係ないと思う。
といち【ト一】

《「上」の字を分解して読んだもの。近世語》上等であること。特に、女性の器量が人並み以上であること。また、そのさま。
「これは―なお嬢様」〈伎・青砥稿〉(松平注:白波五人男のこと)(デジタル大辞泉より)

江戸しぐさレベルのヨタを平気で書いちゃうんだよな…八切氏はこの頃になるとほとんど調べず、記憶に頼って書いていたようである。そして「歴史の裏面を史料に頼らずに書く」と主張していた。昔かなり勉強されたのは分かるのだが、もう少し調べたほうが良かったのではないか。

 

三牧藩主は祇園で美女78人に乱暴して取り潰されたのか?

ウィキペディアに荒らしユーザーが江戸時代の嘘くさい話を大量に投稿していることは既に述べた。
これもまた、その話である。
荒らしユーザーのシェーラ(変名でドルチェット)氏が投稿した「稲葉道重」と「津田信成」についての項目には以下の様な話が書いてある。

   慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、本戦では西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。そのため戦後は所領を安堵され、御牧藩主となる。ところが慶長12年(1607年)、美濃清水藩主の稲葉通重と共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋の女房をはじめとする美女78名に乱暴狼藉を働いた経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易された。一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E4%BF%A1%E6%88%90

これは、「名刀幻想事典」というブログをパクって書いたのだが、実は「名刀幻想事典」も資料を誤読したものと思われる。(なお、ウィキペディアで個人のブログを元ネタに記事を書くこと事態が禁止されているのだが、荒らしユーザーはそういうことを平気で無視するのである)

津田信成は慶長5年(1600年)9月の関ヶ原では東軍に属したことから本領安堵され、初代御牧藩主となっている。しかし慶長12年(1607年)に稲葉通重らと京都祇園で遊んでいた際に茶屋の女房など78人に乱暴狼藉を働いたかどにより御牧藩は改易された。

(名刀幻想事典)http://meitou.info/index.php/%E5%BE%A1%E7%89%A7%E5%8B%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
   
そもそもこの三牧藩主・津田信成という人は、「藩史事典」(秋田書店)が指摘するように、津田元勝と事績が混同されている人であり、女性を誘拐した罪でお家断絶に成ったのは
津田元勝」である。

津田元勝のお家断絶事件については「徳川実紀・台德院殿御實紀卷六」にある話である。

◎この月 伏見にて御家人稲葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衛門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商、後藤幷びに茶屋等が婦女。祇園・北野邊(あたり)を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆(しゅし)にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縛り付け刀をぬき。「若(も)し聲立ば、伐てすてん」とおびやかし。黄昏に皆逃げ去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ(訴え)出ければ。かく命ぜられしとぞ。(慶長見聞書。)
(通釈)慶長12年12月、伏見在住の幕臣、稲葉甲斐守通重、津田長門守元勝、天野周防守雄光、阿部右京なにがし。矢部善七なにがし。澤半左衛門なにがし。岡田久六なにがし。大島雲八なにがし。野間猪之助なにがし。浮田才壽なにがし等は、全てお家断絶となりました。これは、以下の様な事件を起こしたためです。

稲葉たちは、京都の富豪である後藤家と茶屋家の女子が、京都の祇園や北野の当たりで物見遊山をしていたのを誘拐し、むりやり出合茶屋に連れ込んで酒を飲ませ、後藤家・茶屋家のお付の人々を木に縛り付けて「もし声を出せば切り捨てるぞ」と脅かし、夕刻に逃走したものです。出合茶屋の人間が訴えてきたので、このような処分を下しました。(これは「慶長見聞書」にある話です)

この原史料と見比べると、ウィキの記述は乱暴であるしメチャクチャである。
・改易された人物名の違い
・誘拐されたのは「祇園のお茶屋の女房」ではなく「豪商・茶屋家の女性」(茶屋次郎四郎を知らないのだろうか?)
・「美女78人」という謎の改変(人数は誰が言い出したのか。おまけに「美女」ってなんですか。)

どうもこうもなく支離滅裂である。 

ウィキペディアの江戸諸藩の記事は荒らしのでっちあげか。第二の「江戸しぐさ」か

驚くべきことだが、ウィキペディアに有る江戸時代の諸藩の記事は、なんと一人の荒らしユーザーがでっちあげていたようである。

いま、必要があり江戸時代の史料をひたすら読みなおしているのだが、ウィキペディアにだけ有る、謎の記述が多すぎるため、近江「水口藩」 などのところを資料を元に読みなおした所、なんと「シェーラ(デュオ・ドルチェット・吉野信夫などの多数の変名も使用)」という荒らしユーザーが史料もなしに立項した項目であった。唖然としている。彼の自己紹介はかくのごとし。
 歴史が全般的に好きです。202.224.95.2の時から戦国時代の武将をはじめ、多くの武将を新規投稿させていただきました。
 あらゆる視点から、史料を通して歴史を見ています。すでに戦国武将(三好長慶やその兄弟など)の多くや江戸藩主、藩などの投稿を行わせていただきました。史料とは面白いもので、それまで名将と言われている人物の裏の顔なども見えてきます(直江兼続、石田三成など)。
 私は元号に直したりするのが大変苦手で、いつも西欧世界の西暦で表しています。お手数ですが、もし日本の元号に直すのが得意な人がおられましたら、私の投稿したものを元号になおしていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
 202.224.95.188で投稿させていただくこともありますので、お願いします。
新規投稿(大久保長安事件、岡本大八事件、江戸時代の藩主、藩の記事(関宿、淀など)等等)。
現在は江戸時代の藩主(田沼氏、本多氏、井上氏など)、戦国時代の武将(吉川之経らマイナーな武将たち)を投稿しています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85:%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9

 
年号も読めないような人間が歴史学の百科事典を書きなぐるとはまことに世も末である。ところがこの人物、
立項だけはものすごい量をこなしており、シェーラ名義で約900件、 デュオ名義でも約200件、ドルチェット名義でも多数の記事を書きまくり、その中に大量のウソか本当かわからない話をぶちこんでしまったようである。実は彼の荒らし投稿は中国史にも及んでおり、駒田信二の小説「新十八史略」を出典に記事を書いており頭が痛い。

彼の歴史知識は、なんと時代小説や「信長の野望」の攻略本(!)から由来しており、荒らしを指摘されると、
なんと小説由来の話を大部の歴史事典を出典として書き始めるようになっており、
隆慶一郎の「影武者徳川家康」の話を平然と出典を偽って書いているのである。

以前、私はこう指摘した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E4%BE%9D%E9%A0%BC/%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%AE%E5%87%BA%E5%85%B8%E3%81%8C%E6%8F%90%E7%A4%BA%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%82%92%E5%A4%A7%E9%87%8F%E3%81%AB%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%81%99%E3%82%8B%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6)

『慶長年中卜斎記』:板坂卜斎『慶長年中卜斎記』我自刊我本、明治15、近代デジタルライブラリー所収。他、異本に
早稲田大学蔵本の江戸享和3年の土井利伏の写本『慶長年中記』などがある。
「北越軍談」:
『名将言行録』:
『老人雑話』:
いずれも隆慶一郎の伝奇小説影武者徳川家康や、それに類するものからの孫引きと思われます。関ヶ原の戦いで引用されている『慶長年中卜斎記』の文章を原史料と比較すると、史料からの引用に比べ、漢字がかなにひらかれ(例、莞爾々々→にこにこ)、写本『慶長年中記』と『慶長年中卜斎記』とを足して2で割ったような記述にされておりました。尚、同著は伝奇小説という小説の形式上、原史料とは異なる描写がされていることが往々にしてありますので、ウィキペディアの出典として用いるのには全く不適切です。

伝奇小説では虚偽史料を用いてもっともらしくする手法がよく用いられており(例を上げれば周大荒『反三国志演義』が発見したと称する『三国旧志』、半村良『産霊山秘録』に登場する複数の虚偽史料など)、

影武者徳川家康が引用する史料もこの類で、『徳川実記』に出てこない話が『徳川実記』よりとして普通に出てきたりします。なお、出典を世界逸話大辞典と称しているものにも、影武者徳川家康からの話があるようです(藤堂高虎、徳川秀忠で確認)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:%E9%80%B2%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%8D%92%E3%82%89%E3%81%97%E8%A1%8C%E7%82%BA/%E9%95%B7%E6%9C%9F/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A9

当然ながら良心的な利用者から憤怒の声が上がり、史料を読んで下さい、あなたの出典は何ですかと何度も何度も炎上したが、彼は一度は謝ったりもしたが、結局それを無視して、アカウントを消される度に別名義で同じような記事を量産しているのである。くれぐれもウィキの記事を元に江戸諸藩を理解しないでいただきたい。
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