群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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歴史全般

徳川将軍家は「王」だった?!ー徳川将軍家に贈られていた漢風諡号の謎~

Rinnoji_taiyuinbyo
[猷王(ゆうおう)・徳川家光の廟『大猷院廟』(たいゆういんびょう) 栃木県日光市、国宝及び世界遺産指定。
画像はウィキペディアのフリー画像を使用]

これが『烈祖成績』・『三王外記』・『続三王外記』・『文恭公実録』が書いている徳川将軍家の贈り名の唐名。

1、烈祖(神祖)・家康
2、徳王・秀忠
3、猷王(ゆうおう)・家光
4、荘王・家綱
5、憲王・綱吉
6、文王・家宣
7、章王・家継
8、徳王・吉宗
9、惇王・家重
10、浚王・家治

一見、なんというか「十二国記」か中国周王朝の王号みたいですが、これなんと徳川将軍の王号。
「台徳院」「大猷院」などの朝廷から贈られた諡号(シゴウ、贈り名)を中国風に呼んだものです。
漢学者が漢文で史書を書く時に好んで使っていたようです。
『烈祖成績』・『三王外記』・『続三王外記』・『文恭公実録』はいずれも漢学者が書いた私撰(自分で書いたもの)の書で、非公式な内容なのでこういうことが書けたのかもしれません。『三王外記』は太宰春台の作ではないかと言われており(非公式なアングラ出版で「訊洋子」(じんようし)というペンネームを使っている)、それを書き継いだ『続三王外記』・『文恭公実録』も同様です。(『文恭公実録』だけは著者が明治政府に出仕しているので著者が明らかになっている)。

家康の諡号が「烈祖」なのが意外というお話があり、正直私も意外と言えば意外なんですけど、そう言えば徳川斉昭の諡号も「烈公」なんですよ。徳川家は「烈」って言う字が好きなんじゃないかな。 

なお、この漢風諡号に王を使うのは家治までで、「徳川将軍は諸侯なのになんで王なんだ!不敬だ!」という国学者からの批判もあり、11代将軍、文恭院・徳川家斉は没後「文恭公」と呼ばれています(五弓久文『文恭公実録』序)。諡号が朝廷から贈られるのも14代までで、15代慶喜にはありません(神式葬儀だったため戒名もない)。


珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

八切止夫氏は異端の歴史作家と言われ、新左翼運動にかなりの影響力を持ったとされる。若いころの文章はともかく、晩年のその主張ははっきり言えば「電波」の一言に尽きる。江戸しぐさの江戸っ子大虐殺レベルの主張を「真の歴史」と吹聴し、それを信じこむひとが多いのは困ったことである。

 今更、随分前に亡くなられた方の説を批判するのも気が引けるが、こういう電波を信じこむ野党の政治家が出てきているのだから、批判せざるを得ない。

このような偽史については、既に原田実先生や佐々木俊尚氏の論考で批判されているが、まだまだ偽史を街頭演説した人間に23万票も入ってしまうのだから、地道に批判していくしかあるまい。

珍説・唐の木っ端役人の郭ムソウが日本の総理大臣に成り代わる?!

 http://www.rekishi.info/library/yagiri/より
「純正日本史案内」 

なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。
八切氏はこの「藤原鎌足中国人」説を長年主張され、信者も多く、「郭ムソウ」でググるとこの節の信奉者がバカンバカン出てきて頭が痛くなるが、なにか八切氏は根本的に誤解されているようである。そもそも「唐の大宝律令」なんぞというものはない。大宝律令は日本製である。

 
郭務悰(ムソウ)という人物も、八切氏が思っているほど大物ではないのである。大化の改新の後に来朝した唐の木っ端役人、田舎の副市長のお付きに過ぎない。大和朝廷もまともに扱っていない。
郭務悰 かく-むそう ?-? 唐(中国)の官吏。 白村江(はくそんこう)の戦いの戦後処理のため,唐の百済(くだら)鎮将劉仁願(りゅう-じんがん)の命で天智(てんじ)天皇3年(664)来日。朝廷から正式の唐使とみとめられず帰国,翌年唐使劉徳高とともに来日。さらに10年百済の難民二千余人をひきいて来日したが,翌年筑紫(つくし)で天智天皇の死を知らされ帰国した。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
中臣鎌足(後の藤原鎌足)ってそれ以前に日本に居たんだよなあ。なにしろこの郭ムソウさんが来たのは大化の改新の後なのである。郭ムソウさん、柱国という一見凄そうな肩書を持っているのだが、唐代の柱国というのは単なる勲章である。官位も従五品下・朝散大夫と低く、大和朝廷からも「なんだこの使い走り」だと思われていた人である。どう考えても藤原鎌足になれそうもない。

しかし八切さん、「武鑑」を読んでいた割に「朝散大夫」というのが大した官位でないことが分からないんですかね。日本の江戸時代の制度でも、朝散大夫というのは大名の最下級、従五位下の異名なのである。例えば浅野内匠頭も「朝散大夫」であった。

おまけに、郭ムソウさんは唐の正使・沂州(ぎしゅう)司馬の劉徳高(これがまた大した官位ではない。副市長程度の人である)の子分なのである。日本書紀では「劉徳高など」と、「ら様」扱いを受けてしまっている始末である。沂州というのも人口19万の田舎町で、水滸伝にモデルにされた人物が出てくる、王倫(おうりん)という小悪党の在所である。
沂州,中國古代設置的一個州,治所在今山東省臨沂市。北周改北徐州為沂州,因沂河而得名。治所在即丘縣(今山東省臨沂市東南)。唐朝將州治遷到臨沂縣。曾改名為琅邪郡。土貢:紫石、鍾乳。戸三萬三千五百一十。口十九萬五千七百三十七。北宋王倫在沂州起義。(https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E6%B2%82%E5%B7%9E)

中臣鎌足はこの頃既に、内臣(後の内大臣…内閣総理大臣代理)なんだよね。

田舎の副市長の随員程度の郭ムソウさんが、今で言えばバリバリ働いている副総理と入れ替わりになってしまうようなものだ。ありえないことである。

藤原氏も何もあったものではない。そもそも中臣鎌足は「白村江の戦いで勝てなくて申し訳ありませんでした」と死ぬ間際に天智天皇にお詫びしたような人である。唐の人であろうはずがない。

現代中国語を駆使する唐の人!


八切氏はこうもいうのだが、どうも八切氏の頭のなかの中国は唐も満洲国もゴチャゴチャなようである。(八切氏は戦時中の満洲にいた)
唐風にすべてが変り、「弁髪」と称して男でも豪い人は三つ編みのお下げを、だらりと垂らしていたから、 「‥‥長い物には巻かれろ」とする日本人的精神が地下(ぢげ)人達の間にここに芽 生え、今でいえば英会話学校のようなのが出来て、そこで、会計や計算を、 「イ、アル、サン、スウ」とやったものらしい。…(中略)…「何であるか‥‥シヨマ」「判りました‥‥ミンパイ」「早く‥‥カイカイジー」  などと、会話早判りを細かく書きつけたものを、みな持ち歩くようになった。
それ、満洲国の話ですよね?

その持ち歩いていた書きつけ、中国語早覚えの急就篇(きゅうしゅうへん…今で言えば「旅の指差し会話帳」のようなもの)じゃないですかそれ…

そもそも、唐代の人がなんで現代中国語でしゃべるんですか…
うがった見方をすれば、春夏秋冬季節の移り変りがはっきりしていて、当時はスモ ッグ公害もない日本列島へやってきて、「これ、桃源郷か」と、「トウゲン」とよび、それが藤原の名のりになったのかも知れぬ。
藤原氏の名乗りは中臣鎌足が住んでいた高市郡藤原からですよ。

しかし、都合のいい時だけ漢音で漢字を読むんですね八切さん。唐の人は現代中国語で話していたのではなかったのですか?!

それからスモッグ公害、唐でも無いと思いますよ…

出た!八切止夫十八番のコジツケ!
さて、今ではあまり豪くはないらしいが、かつては家長として威張っていたのを、「トウさん」とあがめて呼んだり、 「良家の子女」つまり京都大阪方面の、大きな商家の娘に対して、「嬢さん」と文字はかくが、これを、「トウさん」「トウはん」とよぶのも、現代ならば、やはり「唐さん」と書かねばならぬところなのだろう。

なにしろ河竹黙阿弥の、『白浪五人男』の浜松屋の店先の場でも、「これは、トイチな御嬢さま」と、江戸でも判るような台辞になっているが、この場合でも字を当てるなら、(唐でも一番の)といった最高級の賞め言葉であろう。

「といち、はいち」といった俗語もそれからでているし、『枕草子』に、「近衛の中将を、頭(とう)の中将と申しはべる」とか、「蔵人頭」というのもあって、「頭はトウ、つまり唐」を意味するから、最高位をやはり公家ではそう発音し、適当に当て字をして用いていたものだろう。
ここでいう、「といち」とは近世の俗語で、「上」の字を分割して「ト一」としたものだと辞書『大辞泉』にはある。
唐は関係ないと思う。
といち【ト一】

《「上」の字を分解して読んだもの。近世語》上等であること。特に、女性の器量が人並み以上であること。また、そのさま。
「これは―なお嬢様」〈伎・青砥稿〉(松平注:白波五人男のこと)(デジタル大辞泉より)

江戸しぐさレベルのヨタを平気で書いちゃうんだよな…八切氏はこの頃になるとほとんど調べず、記憶に頼って書いていたようである。そして「歴史の裏面を史料に頼らずに書く」と主張していた。昔かなり勉強されたのは分かるのだが、もう少し調べたほうが良かったのではないか。

 

「世は一局の碁なりけり」の出典

土井晩翠の「星落秋風五丈原」に「治乱興亡おもほへば世は一局の碁なりけり」という句があるが、これはおそらく、南宋の袁枢の「通鑑紀事本末」の李拭(手ヘンではなく木ヘン)序に「古今は一代の碁局なり」から来ているのであろう。「通鑑紀事本末」は明治八年に松平春嶽・稲葉正邦の序で刊行されている。

 
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/775300
(資治通鑑
紀事本末、国立国会図書館近代デジタルライブラリー) 

江戸諸藩の経済政策メモ(今後の手控え)

このツイートが高名な先生からもお褒めいただいてしまい恐縮しているのですが、いや本当に江戸諸藩は色々な経済政策をやっているのですよ(失敗も成功も多い)。いま、気合を入れてひたすら調べているところです。 なお、相良藩というのは遠州相良藩で田沼意次公の藩です。肥後相良人吉藩ではないです。「中国人爆買い目当て」というのは当時の中華料理に使う食材を田沼公が老中時代に長崎で売ったことをいう。当時の中国は空前の美食ブームで、フカヒレやらアワビやらを爆買いしていたんですね。銅の地金も買いまくったようだが、なんと爆買いで船が重くなりすぎて出港できなかった(!)こともあるというから、昔から中国の購買力はすごかった。これも確か指摘していた論文があったはず。

菅野完氏の発言についての指摘~江戸しぐさは日本会議発祥か

菅野完氏の『日本会議の研究』という本が売れていると聞き、元の原稿やご本人の関連発言がネットで公開されていたので読んでみたが、色々と問題が多いことに気づいたので指摘したいと思う。
(※本稿執筆後、著者菅野氏より連絡あり表題を改めた)
指摘は多数あり、これは江戸しぐさや倉山満氏の批判をやった時以来の大掛かりなものになるであろう。

1,江戸しぐさは日本会議発祥か?

著者ご本人の発言である。しかしこれは誤りであろう。江戸しぐさのオリジナルコンテンツの開発元が日本会議であるはずがない。また、そもそも江戸しぐさはリベラル色が強い主張であった。

そもそも前提として、江戸しぐさは日本会議発足(1997[平成9]年5月30日)以前に既に存在していた。現在の形での江戸しぐさを広めた、越川禮子氏の『江戸の繁盛しぐさ』は1992年に出ている。

そして、既に原田実先生が名著『江戸しぐさの正体』(星海社新書)で指摘されるように、江戸しぐさ布教マンガ「江戸しぐさ残すべし」(みやわき心太郎作)では、安倍晋三氏への批判が行われ、「戦後レジーム脱却!憲法改正!」を怒号する安倍氏の似顔絵に「オンヤ?あんたまた長州藩なの?」「日本を戦争のできる国にしないで」というセリフまでついていたのである。日本会議とは真逆の主張である。

また、江戸しぐさを学校現場に取り入れる動きは、江戸しぐさ創始者・芝三光生前から存在していた。
そして、芝は日本会議及びその前身組織、神道系組織とは無縁であった。そもそも江戸しぐさに神仏に関するものは存在しないのである。

芝は、子供へ江戸しぐさを教え込もうという考え方をしている人物であった。そして、1985年(昭和60年)、跡見学園女子大学において「はたらくー江戸の職人の世界」という題で公開講座の講師も行っている。

「江戸しぐさは赤旗の人たちにも話した」「江戸しぐさを復活させるには民主党政権交代しかない」

その後を継いだ越川禮子氏も江戸しぐさを教育現場に普及させることに熱心で、自らこう語っている。
「私は『江戸の繁盛しぐさ』という本を日本経済新聞社から1992年に出させていただいてから16年あまり、いろんなところで日本人のDNAのことを話してきました。警察の幹部の方たちにも赤旗の人たちにも、左も右も関係ない。江戸しぐさは宗教でも思想でもないんです。江戸しぐさは日本人が暮らしの中で培ってきた生活信条なんです。癖になっていると言いましょうか、まさに日本人の感性そのものなんです。私たちがやっていることは日本人の基本に戻りましょう、という運動です」
これは、福田康夫政権下の2008年(平成20年)7月10日にはNPO法人江戸しぐさが、全国の小学生に作文を書かせた「わたしの『平成しぐさ・ふるさとしぐさ』コンクール記者発表」 で越川氏が話したことである。
(http://www.edoshigusa.org/activity/report/20080710/)
この記者発表では「朝霞第七小学校の「江戸しぐさかわら版」の復刻版」が出てきており、教育現場への浸透はそれ以前から行われていたことが伺える。

 ここでわざわざ江戸しぐさを話してきた人々の中に「赤旗の人たち」が出てくるのだが、事実、左派の議員経験者の中にも江戸しぐさに共感する人は存在しており、例えば民主党→生活の党→無所属のおくもとゆきこ氏(元広島県議会議員)は、2008年(平成20年)2月1日、ブログで以下のように江戸しぐさへの共感を述べ、江戸しぐさを復活させるために民主党による政権交代が必要だと訴えていた。(http://orange.ap.teacup.com/yukikokajikawa/48.html)
なぜ、こんな文明的に非常に洗練された「江戸しぐさ」が日本でなくなってしまったのか?と嘆かれている方も多いでしょう。 明治維新のとき、薩長軍が新政府を樹立し、官軍となると江戸っ子狩りが大々的に行われ、「江戸しぐさ」が摘発の目安となり女・子どもが狙われ、江戸っ子は難民となり、江戸から逃れて行きました。 薩長の田舎侍が江戸を乗っ取ってから、「江戸しぐさ」が廃れてしまったのです。 江戸には、「おつき合い講」があり「異国つきあい」「一見つきあい」など異文化・あかの他人といかにつきあうか人間の真価が問われていました。 江戸ッ子が「異国つきあいを知らない連中が天下国家を取って、うまくやっていけるんでしょうか。 これでは3代目にはエゲレスやアメリカと喧嘩をしてシャッポをぬぐことになりませんかね。」と嘆いた通りに歴史はなりました。
また、江戸料理は夫婦二人で作るのが原則でした。 明治維新で江戸の文化は影の歴史として葬られ、薩長軍による新政府が富国強兵をスローガンに男尊女卑の国へと作り変えてしまったのです。 江戸の人々は、目の前にいる人は仏の化身でみんな平等、誰から見ても弱者の立場の人に対して威張るのは最下等の人間として嫌われました。 江戸ッ子はしぐさは、世間さま(他人)を見て、自然に身についていくものだと考えて、見目かたちよりも身のこなし方や表情に重きをおいていました。 才覚のある人の芽をつまず、よそ者(新人)をいびらず、結果として世のため、人のためになる人材を尊重するリベラルな風土が江戸を268年も安泰にし、庶民が平和に暮らせたのだと私は考えます。
明治維新でお上から強要された薄っぺらな中身のない「文明開化」のメッキが140年もたつとボロボロになり、日本中を蝕んでいます。 明治維新・第二次大戦後に権力を握った人々が既得権を死守することだけ考え、生き残るためには他人を犠牲にしてもよいといいう排他的・特権階級意識の強い指導者をみると、東京は江戸よりも劣化していると感じるのは私だけでしょうか? 「自立と共生」の思想や相手への思いやりに溢れていたお江戸の伝統は、政権交代しなければ復活しないのだろうなぁ~と私は思います。(下線筆者付与)
おくもと氏の発言は、元々リベラルだった本来の江戸しぐさをそのまま受け取ったものであり、むしろTOSSなどによる「にわか講師江戸しぐさ」の方が改変されたものなのである。(この項続く)

付記)本稿執筆後菅野氏ご本人より丁重なご連絡を頂いた。「認識を改めたが著書に江戸しぐさについての言及はない」とのことである。念のため付記しておく。
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