群龍天に在り(webディレクターと歴史好きの雑記帳)

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三国志・五胡十六国

続々「中国人三国時代絶滅説」、加藤徹氏の岡田説批判

さて、岡田英弘氏の「中国人三国時代絶滅説」については、既に加藤徹氏(明治大学教授)が批判している。
戸籍登録人口の激減を額面どおりに受け取り、「華北の平原地帯では住民がほとんど絶滅した」(岡田英弘『だれが中国をつくったか』)と見なす研究者もいる。

しかし、当時、兵士や官吏の人口は一般の戸籍と区別されていた。政府の戸籍把握能力も、低下していた。

それらを考慮すると、おそらく、三国時代の実人口は、後漢に比べて半減していたと見積もられる。
(加藤徹『貝と羊の中国人』新潮新書) 
学者が正面切って名指しで批判するのはかなり珍しい。例えば本郷和人氏は相手がかなりの大家でなければ名指しで批判しないことを明言している(本郷『戦国武将の選択』産経新聞出版)。

加藤氏の指摘はかなり重要で、歴史書に登場する人口はあくまでも政府が把握している戸籍人口にすぎないのである。 

続・「三国時代中国人絶滅説」、本当の人口統計はどのくらいなのか?

前回、岡田英弘氏(東京外語大名誉教授)の「三国時代中国人絶滅説」に疑問視する意見を書いた所、ネット上で反応を頂いたので再度これについて補足したいと思う。ちなみに、岡田氏は別の本ではもっとトンデモないことを言っていた。

 岡田英弘氏のトンデモ認識「中国の人口が激減しなければ、日本は中国語をしゃべって毛沢東万歳を叫んでいた?」
もし黄巾の乱が起こらず、中国の人口があれほど激減しなかったならば、朝鮮半島も日本列島も巨大な中国の実力の前に完全に中国化して、いまごろわれわれも中国語をしゃべり、毛沢東思想万歳や四人組追放、改革開放を叫ばなければならなかったかもしれない。
(岡田英弘『やはり奇妙な中国の常識』ワック、2003。元の本は1997年の『中国意外史』(新書館))

まず、岡田氏の説について再掲しておく。(『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)より)

黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。といっている。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
これについてだが、おそらく「中国の人口は十分の一に激減」「漢族の絶滅」という話は、伝統的な誤読をそのまま引きずってしまったのではないか?と思う。

『十八史略』の影響?

伝統的な中国史の史観では、中華思想に基づき、五胡十六国・南北朝時代の北中国はほぼ廃墟だとされていた。それが諸悪の根源ではないか。例えば晋書・世説新語・十八史略などにはこのような記述がある。
 桓温督諸軍討襄。進至河上。與寮屬登平乗樓、北望中原歎曰、使神州陸沈百年。王夷甫諸人、不得不任其責。

<意訳>
東晋の
桓温が軍勢を率いて黄河に差し掛かった。桓温は楼閣に登って廃墟になった北中国を 眺め、「中国を廃墟にし、失われた百年にしてしまったのは、永嘉の乱を引き起こし、政治を放棄して責任逃れをした王夷甫たちのようなお粗末な政治家どもの責任ではないか!」と嘆いた。(十八史略)
この十八史略の「神州陸沈」という話が余りにもドラマティックだったために、古い漢文教育を受けた人は「ああ、304年の永嘉の乱により中国は壊滅してしまったんだな」「その前の三国時代の英雄の話はすべて滅んでしまったんだな」と考えがちなのかもしれない。「神州陸沈」という言葉は四字熟語として幕末から戦前にかけてかなり流行っていたらしく、吉田松陰や徳富蘇峰の文章の中に「神州陸沈」という言葉が見られる。

 しかし、 永嘉の乱での死者はどう多く考えても20万程度でしかなく、晋書によれば370年の北中国東半分(前燕国)の人口は998万人も居たのである!

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(前燕があった370年頃の中国諸国。人口を資料によって付記した。)

南朝もそれなりに人口が居たが、やはり北朝の方が人口が多いようである。前秦・代・涼の三国は人口不明)

前燕は998万人、 南の東晋は468万人(これは東晋滅亡後すぐの劉宋の数字だが禅譲なのであまり人口増減はないはず)

前秦・代・涼の三国はよくわからないが、西晋が1616万人だったので、永嘉の乱での最大死者数(20万?)を減らし、前燕・東晋分を減らすと、残りは130万人で、だいたいそのぐらいではないだろうか。要するに1500~1600万人台で大差なかったのだろう。これでも後漢最盛期は約6000万人くらいの人口が居たので、4分の1程度まで減っていることになる。

さて、この後南北朝が分立すると北朝2000万、南朝200万人前後で推移する。戦争が減ると南朝から北朝へ帰郷する人も増えたであろうし、新たに来た騎馬民族もいたであろう。ただそもそも論として騎馬民族がものすごくたくさん居たとも思えないので、元からいた漢民族1500万、騎馬民族500万程度で混血が進んだと考えたほうがいいかもしれない。だとすれば中国人絶滅というのはかなり怪しいと見ていいのではないか。

南北朝が統一された唐の貞観年間、人口は1325万人だったという。隋と唐の間でも「隋唐演義」に脚色されるような戦乱が有り、一時的に人口が減少したが、その後人口は3710万まで回復している。玄宗皇帝の頃には後漢の最盛期の人口に近い数字まで人口増加が見られるのである。

(参考文献:『戦略戦術兵器事典 中国編』学研所載の「中国人口変遷史」表より) 
地図はウィキペディアから引用したものに追記。 

やってしまいましたなぁ…「三国時代中国人絶滅説」は史料の誤読?

意外に薄弱な根拠

歴史学者の岡田英弘氏(東京外国語大学名誉教授)がしばしば主張している「三国時代に漢民族は激減し、ほぼ絶滅した」という説は、トンデモ本で拡大解釈して使われる他、保守系の文化人の漢文解釈書でもしばしば出てくる説である。

しかし、この根拠となる部分を漢文史料原文に当たり直してみると、意外と怪しいのではないか?と思わざるをえない。

例えば、岡田氏は著書『よくわかる読む年表 中国の歴史』(ワック)で以下のように言う。
黄巾の乱から五十年をへたこの230年代に、当時の魏の大官三人(松平注:陳群・杜恕ら)が明帝に提出した意見書から当時の中国の人口が推計できる。(中略)
 黄巾の乱から半世紀後、中国の人口は十分の一に激減した。これは事実上、漢族の絶滅と言っていい。(同書91ページ)
 
 前述したように、黄巾の乱から半世紀後の三国時代に、中国の人口は十分の一以下に激減していた。220年、後漢の最後の皇帝から帝位をゆずられた魏の曹丕(文帝)はその翌年の221年、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)までの範囲を限って石標を立て、その内側を「中都の地」、すなわち「中国」とし、わずかに生き残った領内の人々をかき集めてその中に移住させた。(中略)

 このせまい範囲に中国人がたてこもることになり、その外側は軍隊の駐屯地以外には、ほとんど住民がなくなったのである。(同書98ページ) 
まず、杜恕は「いま大魏は十州の地を奄有しているが、喪乱の弊を承けて、その戸口を計れば、往昔の一州の民にも如かない」という話は、陳群伝にも同じ話が出てくるが、三国志の注で裴松之がツッコミを入れているので、そもそも白髪三千丈式のお話でしか無い。
<原文・原注>
況今喪亂之後,人民至少,比漢文、景之時,不過一大郡。(三国志・魏書・陳群伝)

臣松之案:漢書地理志云:元始二年,天下戶口最盛,汝南郡為大郡,有三十餘萬戶。則文、景之時不能如是多也。案晉太康三年地記,晉戶有三百七十七萬,吳、蜀戶不能居半。以此言之,魏雖始承喪亂,方晉亦當無乃大殊。長文之言,於是為過。

<意訳文>
陳群「いまは葬乱の後で、人民は至って少なく、漢の文帝・景帝の時に比べれば大郡一つ程度の人口しかいません」

臣、裴松之が考察します。この陳群の発言は言い過ぎです。
「漢書地理志」によりますと漢の武帝の最盛期の人口でも、一番大きな郡の世帯数は「30万」しかありません。文帝・景帝の時はこんなに多くなかったでしょう。晋の
太康三年の記録ですと、魏の本土には「377万世帯」がおり、呉・蜀の世帯数はそれに比べて半数以下だとあります。魏の初期は戦乱の後だったとはいえ、晋の太康三年の記録とそう大きく数字が違うことはありえません。陳群は大幅に数字を盛っているのでしょう。 
さらに、221年の「生き残りの中国人の中都の地への移住」について。これの典拠は正史三国志・魏書文帝紀の注に引用する「魏略」と思われる。
<原文> 
魏略曰:改長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽為五都;立石表,西界宜陽,北循太行,東北界陽平,南循魯陽,東界[炎β],為中都之地。令天下聽內徙,復五年,後又增其復。
<現代語訳>
「長安、[言焦]、許昌、鄴、洛陽の5つの県を改めて都とした。また、石の標識を立てて、西は宜陽、北は太行山脈、東北は陽平、南は魯陽、東は[炎β](タン)をそれぞれ境界として、その内側を「中都」とし、天下の人々にそのなかに移住することを許したうえ、五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された」(守屋洋・訳。『正史三國志英傑伝 1 魏書』徳間書店より)
ぜんぜん違うじゃないか!!

なぜ、岡田氏は誤読してしまったのか。

ここが漢文の恐ろしいところである。漢字一字を飛ばしただけで意味が全く変わってしまうのだ。
岡田氏は「令天下聽內徙」(天下をして内に徙(うつ)るを聴かしむ=天下の人民が首都圏に移住するのを許可した徙は移とほぼ同じ)を誤読して、
令天下内徙」(天下をして内に徙す=天下の人民を中都(=中国)へ強制移住させ、他の土地はほとんど人がいなくなった)としてしまったのではないか。

そして、「中国人は激減して完全に絶滅した」という説を導き出してしまったのだと思う。(この中都地域の人々は後の永嘉の乱でほぼ死に絶えてしまったので)

岡田氏は別の著書『やはり奇妙な中国の常識』(ワック)でも、
魏は建国の翌年の221年、河南省の北部から山東省の西部、安徽省・江蘇省の北端にわたる東西に細長い地域を内地に指定して、周囲に石の境界標を立て、支配下の人民を強制的にその内側に移住させた。
 つまりここだけが中国だということで、その外側は屯田兵が基地に居るだけの空地になったのである。(同書26ページ) 
と解釈しているが、やはり誤読であろう。

 残念ながら岡田氏の読み方だとその後ろの「復五年,後又增其復。」(五年間租税を免除したが、後にその期間は更に延長された)が全く意味不明になってしまう。強制移住なのになぜ減税の優遇措置までしているのか訳がわからない。

もっといえば、中都=中国という読み方も強引すぎると思う。司馬貞の史記索隠では「中都とは都内というようなものだ」と解釈しており、この魏略の記事でも、中都とは単に「首都圏」  と言いたいだけではないか。

更に、魏書文帝紀のこの続きの部分では、「中都」以外の地域でも内政を行ったり、イナゴの害の対策を行ったりしているのである。岡田氏の説では「屯田兵が基地に居るだけの空地」でなぜ内政を行うのであろうか?おそらく首都圏以外にも普通に人が住んでいたのであろうとしか考えられない。
三年(中略)秋七月,冀州(現在の河北省)大蝗,民飢,使尚書杜畿持節開倉廩以振之。
十一月庚寅,以冀州飢,遣使者開倉廩振之。
六年春二月,遣使者循行許昌以東盡沛郡,問民所疾苦,貧者振貸之。
たぶん、以前の本で記憶か自分の古いノートを元に誤写したときの誤りがずっと訂正されていないものだと思うのだが、なにしろ国立大名誉教授がこういうことを書いてしまうと信じこむ人も出るのである。

たとえば、ある大学名誉教授(専門は英文)は、
「三国志の頃の中国人と、今の中国人はまるで違ってしまっている。おかしいと思っていたが岡田英弘氏の本を読んでなるほどと納得した。三国時代の中国人は絶滅してしまい今の中国人とは別の民族なのだ」
と漢文解釈書で平然と述べていた。お、おお… 

正史三国志入門・番外特別編「正史三国志入門に最適な本は?」

「正史三国志入門に最適な本は?」と人に聞かれることがあるので、その時に勧めている本を幾つか紹介しようと思う。ウィキペディアを見るより、やはり本の方がいい。当たり前だが。

読切り三国志 (ちくま文庫)
井波 律子
筑摩書房
1992-10


これが一番わかりやすくて面白い。元々は石川県の地方紙・「北国新聞」の連載読み物だったようだ。50回に分けて 正史三国志を物語風に編年体にバラして語っている。なにげに川勝義雄の研究なども引用されていて侮れない。


起つ (正史 三国志英傑伝)
中国の思想刊行委員会
徳間書店
1994-01




いきなり4巻本をすすめてしまうのもどうかとおもうが、正史の丁寧な訳と原文、書き下し付きのシリーズである。翻訳者は故・立間祥介氏、守屋洋氏などビックネーム。

このボリュームで全部訳したら、ちくま文庫版・完訳正史三国志の量を遥かに凌駕しただろうが、さすがにそこまでは無理だったのか、主要な本紀・列伝をピックアップしている。

要約・正史三国志入門 魏書2ー「列伝編」

要約・正史三国志入門も本紀が終わり、列伝に突入する。

5. 魏書五 后妃伝第五 - 武宣卞皇后・文昭甄皇后・文徳郭皇后・明悼毛皇后・明元郭皇后

武宣卞皇后(ぶせんべんこうごう、曹操の皇后)・文昭甄皇后(ぶんしょうしんこうごう、曹丕の皇后)など。
列伝のド頭が女子なんですね。陳寿先生、序文で「易経に言う、男正位乎外,女正位乎内』。男女正なるは、天地の大義なり!」と大上段に出てフェミっぷりをアピールしております。史記だと「序章」扱いで伯夷伝なんですけどね。 

曹操の奥さん・武宣卞皇后伝がすごい。なお、歴史漫画「蒼天航路」では「卞玲瓏」という名だが、当時「二字の禁」というのがあったわけで、こんな名前はないw もちろん陳寿もそんなことは書いていない。

武宣卞皇后は、琅邪開陽の人,文帝の母也。本は倡家(しょうか)」 本は倡家というのは「枕営業もある芸能人出身」だという(異説あり。詳細は下記。)のだが、非常に頭がよくしっかりした人だったようで、旦那が斬られたという話があっても動じないあたり流石。(しかし、こういうことを見も蓋もなく平気で陳寿は書くね。尊敬していた司馬遷の「劉邦の父はオッサン、母はバアサン」という身も蓋もない書き方に倣ったのだろうか?)

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(中国大河ドラマ『曹操』より。仲間由紀恵似で超可愛い武宣卞皇后。画像はhttp://bbs.voc.com.cn/topic-4761672-1-1.htmlより)

なお、魏の皇帝たちが愛した女性はみんな下流出身だったことは明末清初の儒学者・王船山(ふなやまではなく、せんざんと読む。大物の儒学者でふなっしーの仲間ではないゾ)も
「曹操の愛人はみんな下流なっしー!!魏のプリンセスは代々、皆そうなっしー!!梨汁ブシャーしてビックリなっしー」と著書『読通鑑論』で驚いているぐらいである。

Funassyi

 (ふなっしー王船山のイメージ[だいぶ違うと思う])

少し専門的だが、この「倡家」という言葉の解釈は学界でも論争になっているのである。

盧弼『三国志集解』や矢田博士氏の論文『
「昔爲倡家女 今爲蕩子婦」考 -漢代の「倡家」の實體に即して-』(http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/40609)では、
倡家というのは当時貴族の家に出入りしていた芸能人のことで、時には枕営業でのし上がり王妃になるような人もあった」

とするが、入谷仙介『古詩選』(朝日新聞社・中国古典選)などの伝統的解釈では
「貧しい幼女や、誘拐されてきたお嬢様が無理やりセックスワーカーにさせられていて可哀想な身分だった」
とするのである。

ここでは盧・矢田両氏の新説のほうが無理がないと思うので、そう解釈した。
 
その他は、まあどっちでもいい。甄皇后に関しては裴松之は例によってゴシップを延々と書いているが、陳寿はどうでもいい扱いである。
裴松之は週刊誌向きだよな…いわゆるセンテンススプリング系の…
 
世家相当の列伝ー三国志の前半を彩る群雄たち

魏書六~八までは史記の世家に当たる群雄たちの列伝である。
ゲームの三国志でおなじみの人から、こんな人いたっけ?という人までさまざまである。
三国志最強男の呂布も結構負けているんだよね。張魯伝は道教史の一部として貴重である。
 
6. 魏書六 董二袁劉伝第六 - 董卓・李カク・郭汜・袁紹・袁術・劉表

董卓(とうたく、帝都洛陽に君臨し暴虐の限りを尽した後漢の宰相)・袁紹(えんしょう、河北省を支配した曹操のライバル)・袁術(えんじゅつ)・劉表(りゅうひょう)

日本で言えば戦国大名レベルの大きい群雄の列伝。陳寿は「董卓は有史以来の極悪人ですわ。袁術は悪政を敷いたどうしようもないクズ、袁紹・劉表は表向きは立派だが結局大したことない損五億並のアホ」とメチャクチャ書いている。

相変わらず攻めてますなあ… 
7. 魏書七 呂布臧洪伝第七 - 呂布・(陳登)・臧洪

呂布(りょふ)、騎馬隊を率い暴れまくった最強男。董卓の部下だが寝首を掻いた。曹操の空き城を乗っ取ったが、攻めつぶされ処刑された。

6巻の群雄に比べると小さい群雄の列伝。三国志最強男の呂布だが、陳寿は「強いがアホで信用できない。こんなのは歴史上潰れなかった試しがない」と手厳しい。陳登・臧洪(ぞうこう)は小さい城の城主で、群雄ともいえないのだが、「惜しい人たちだ」と陳寿は惜しんでいる。どうもこういう弱くても頑張ったというタイプに陳寿は弱いのか?

臧洪は籠城中に人を殺して食ったということで後世では大変評判が悪い。

と、ふなっしー先生も梨汁ブシャーして大いに怒っておられます。
 
8. 魏書八 二公孫陶四張伝第八 - 公孫サン・陶謙・張楊・公孫度・張燕・張繍・張魯

こうそんさん、とうけん、ちょうよう、こうそんど、ちょうえん、ちょうしゅう、ちょうろ
いわば「三流群雄伝」。陳寿は「公孫サン・陶謙・張楊・公孫度は悪の限りを尽くして滅亡した、小僧どもだ。元から話にならない連中だ。
張燕・張繍・張魯などは盗賊の親玉で幸い悪の道から立ち返った連中にすぎない」とムチャクチャ書いている。

陳寿は元々儒学者だから、道家の張魯はけなすのはある意味当然だが、張魯は盗賊の親玉で済まされるほどの小物とは違う。道教の創始者の一人である。

『中国歴史文化事典』(新潮社)では、「張天師」として祖父・張道陵などと一緒に立項している。

初期道教『五斗米道』の指導者。祖父張道陵は沛国豊(今の江蘇省豊県)の人、後漢の明帝のとき、巴郡江州の令に任命された。順帝の時、四川省鶴鳴山に入って道を学び、『道書』二十四巻を作り、その子張衡に伝え、張衡の子が張魯であり、代々「張天師」を称した。(要約)

この張道陵が書いた(張魯ら五斗米道が編んだという説もある)『老子』の有名な注釈書が『老子想爾注』(ろうしそうじちゅう)である。『老子想爾注』は敦煌から発見されたが、この思想の解釈をめぐっては中国哲学界隈で現在進行中で議論が進んでいる。『老子想爾注』でググるといろんな議論が出てくると思うよ。とにかく陳寿が小物扱いするほどの人物ではない。なお、この頃、陳寿のような正史を書いていた儒学者たちはかなり『老子』を小馬鹿にしていたらしく、逆に張魯たち道家は「儒学者の説く思想は嘘っぱちだ」と厳しく批判しており、思想対立がかなり濃厚にあったらしい。『老子想爾注』と『太平経(太平要術の書)』との思想的類似も指摘されている。もちろん「雲を呼び風を呼ぶ」ことが出来る様になるような本ではなく、『老子』の真面目な解釈書である。陳寿が「張魯は民衆を惑わしている」と書いたことから、『三国志演義』の妖術使い・張角像が生まれた可能性もあるかもしれない。

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